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リバーズ・エッジ

うーん、はっきり言っちゃえば、とてもショッキングで自分の身近には起こり得ない様でありながら、そのフラットな空気と閉じてない世界感のおかげで、「ああ、自分もこの時代に生きているんだな。」っていうのを実感出来た数少ない話が、単なるヒドイ話(なぜ、ただ、そこに存在するものとして描かれていた暴力やセックスや死を監督はことさらショッキングなものとして描いたのか。)になっちゃってたな。というのが感想です。「リバーズ・エッジ」

1993年にファッション雑誌の「CUTiE」で連載の始まった岡崎京子さんの漫画。僕も少なからず岡崎京子さんの作品は読んでいて、その中でも「漫画ってこんなこと出来るんだ。」っていう衝撃を受けた物として一番心に残っている作品でもあるので思い入れがないことはないんです。(93年と言うと僕が23歳の年なんですね。その年にこの物語を読んだという事は、まぁ、直撃世代と言われればそうなんですよ。)なので、映画化に対してうがった見方が微塵もなかったかと言われればそれもまぁ、全くないということはなくて。でもですね、監督の名前が発表されてキャストが決まってきて、宣伝用の映像が上がって来たりして、最終的には「悪くないんじゃないか。」ってとこに落ち着いてはいたんです。(少なくとも、「へルタースケルター」の映画化よりはいいんじゃないかと。結果的には監督の世界観に寄せてた分、まだ、そっちの方が良かったかってなってるんですが。)で、それは裏切られたみたいな気持ちなのかと言われれば、うーん、まぁ、裏切られたというよりは、やっぱり、無理だったかという気持ちの方が大きいんです。ただですね、もうちょっと何とかなったんじゃないかな~というのは観てる最中から何度も思ってたと言いますか。いや、関わった人の情熱や入れ込み様は分かるんです。なんですが、これ、やってること全部間違ってんじゃないかなという気持ちがですね、とても強く残ったわけなんですよ。で、それは、もしかしたら、制作陣のこの作品に対する思い入れの強さが引き起こした悲劇なのではないのかなと思うんです。

映画を観終わって一番強く感じたのは、僕が知ってる1993年にはこんなに不穏な空気はなかったってことなんです。原作の連載は1994年で終わってるんですが、じつは事件が起こるのはその後なんです。1995年に阪神・淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こって世の中の空気が一変するんです。(エヴァンゲリオンのテレビ放送もこの年ですね。) つまりここで、原作の「リバーズ・エッジ」が描いてた様な ”何もない時代” っていうのが終わったんですね。だから、原作の「リバーズ・エッジ」にはじつは何も描かれていなくて。ここで起こることに意味なんかないんです。原作はその空虚さを描いていたのが凄かったんだと思うんですよ。観音崎が山田をいじめるのにも、山田がいじめられるのにも、ハルナが観音崎と付き合っているのにも、タバコを吸うのも、ドラッグをやるのにも全く意味なんかなかったんです。いや、意味がないというよりは、そこに意味があったらダメな時代だったんですよね。(意味を求めるのはダサかったと言いますか。)その空気が、僕が「リバーズ・エッジ」に持ってた唯一の同時代性だったんですが、映画はことごとく全てのことに意味を見出そうとしてきたんです。

で、それは原作が身体性の薄い漫画っていうジャンルだったから出来たということもあるとは思うんですね。えーと、この空虚さというか、意味がない感じというのが岡崎京子さんの絵のあの雑さ(でありポップさ)から来てたかもしれないということなんですが。これって青春期に誰もが感じることだと思うんですけど、全てが適当で乱雑でリアリティーを感じない。そういう不安定な世界の中で唯一圧倒的なリアルさを放ってくるのが “ 死(死体)” だったっていうバランスなんですよね。原作にある適当な軽いノリの中に死体が登場した時はほんとにゾッとしたんですけど、映画ではそれがなかったんです。それって多分映画が最初から不穏な空気を出し過ぎてるからだと思うんです。いかにも死体が登場しそうな雰囲気を作り過ぎちゃってたというか。全てを知った後の視点で描いちゃってて。大人の視点というか。なので、ハルナが初めて死体を目撃して驚くシーンでも「あ、漫画っぽい驚き方してる。」って、そっちの方に目が行っちゃったんです。(映画冒頭で団地のゴミ置場に炎に包まれた何かが落下して来るんですけど、あれは冒頭に出しちゃダメだったと思うんですよ。だって、アレにもサスペンス的な意味なんかないんですから。)で、この何もない “ 死 ” に憧れるっていうのはギリ1994年が最後だったんじゃないかなと思うんです。その後、震災やサリン事件で、死が圧倒的な現実ってことがみんなに共有されてしまったから。(これ、ここにも空虚さを埋める為に憧れた物はじつは何にも入っていないカラッポな物だったっていう滑稽さがあるんですよね。この軽さなんですよ、「リバーズ・エッジ」の共感部分て。)で、そんなことは震災なんかなくても身近な人の死を体験すれば分かることじゃんて思いますけど。だから、これはまだ死を理解してない10代の話なんですよね。それが1994年ていう時代の空気と呼応した話なんです。(なので、ほんとに未成熟な10代の子達で配役したらもうちょっとリアリルだったかもしれないですね。でも、そもそもリアルじゃないって話なので、今回の配役でもやり様はあったと思うんです。それには、やっぱり意味を求めちゃいけなかったんですよね。だから、あのインタビュ−のシーンなんて最悪なんですよ、そういう意味では。「あなたにはどういう意味がありますか?」って聞いちゃってるんですもん。これがあることによって映画をリアルにしたいのかフィクションに落とし込みたいのか凄いブレるんですよね。観てて。ていうか、そもそも各キャラクターが、この人は暴力を体現する人、この人はセックスで落ちて行く人、この人は病みの象徴で、この人はゲイねって、そういう役割以上の描かれ方がされてない感じがして。これだと変人大集合だよっていうか。原作では、もっとみんなちゃんと普通の子達なんですよ。そうじゃなかったら全く共感出来ないですよ、こんな狂った世界。実際の1993年も別に狂ってませんでしたし。)で、その “ 死 ” が唯一のリアルだっていうのを描くのに岡崎京子さんのリアリティーのない線がとても効果的だったってことなんです。なので、これを実写映画化する場合に最も必要だったのは身体性の無さだと思うんです。(つまり、人間に成りきってない未成熟さです。)だから、二階堂ふみさんを脱がせたのは間違いだったと思うんです。なんで大人の女性の身体性強調してんだよって話なんで。

そうやって、監督や俳優の人達がキャラクターを理解しようとして思い入れたっぷりに演技したり演出したりすればするほど、原作から離れて行ってるんじゃないかって気がしたんですよね。だって理解なんかして欲しくないって話でしょ?(「いや、君達の事分かってるよ。ほんとは寂しんでしょ。」みたいなのにはヘドが出るって話じゃなかったでしたっけ?僕はそこに共感してたと思ってたんですけど。)理解して欲しいって話にしたいんだったら、1995年以降の話にするべきなんです。別にそれでも問題ないと思いますし。ただ、「リバーズ・エッジ」ではなくなりますけどね。つまり、この映画観てると、なぜ監督が「リバーズ・エッジ」を撮りたかったのか、そこのところが全然伝わって来ないんですよね。なぜ、ただ、そこに存在するものとして描かれていた暴力やセックスや死を監督はことさらショッキングなものとして描いたのか。(大事なことなので2回書きました。)まぁ、だから、そこが一番問題ではあるんですよ。 (最も残念だったのは、映画がナルシストの自分語りの道具としてかっこうのショッキングさだったこと。原作は圧倒的過ぎて「読んだ」っていう事実しか残らない様な作品だったのに。)

はい、では良いところが全くなかったのかと言うと、エンディングの元フリッパーズギター小沢健二さんの曲は良かったです。それまでの大仰で重いトーンを完全に無視して始まるポップでノーテンキな曲調。現実をモンタージュしていく様に淡々と積み重ねられていく本当の言葉。本音を言う時はただ事実を積み重ねるだけでいいんです。そこにそうやって存在していたっていうだけで。(インタビューでは本当のことは言わないもんなんですよ。)エンディングでこの曲聴いて、あ、「リバーズ・エッジ」ってこういうことだったと思いました。

それと、カンナ役をやってた森川葵さんも良かったですね。誰が何の為にどこからの視点で何を語ろうとしてるのか全く定まらず、リアルとフィクションがバラバラになったまま投げ出されてしまってるピンボケな世界の中で彼女だけが一貫してリアルだったので。

(ただですね、原作を知らない若い人がこの映画をどう観るのかに関しては興味あります。95年以降、世界は確実に理解してくれって方向に向かっているので。)

http://movie-riversedge.jp/

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