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はい、透明人間です。ホラーというよりは怪奇物って感じのキャラクターですが、スーツにハット、包帯にサングラスみたいな。子供の頃にみんな一度はなってみたいと憧れるキャラクターでもありますよね(透明人間になって好きな子の生活を覗き見たいとか。)。そういう既にキャラクター化してしまってる古典のもう何十回目かという映画化(という意味では『ストーリー・オブ・マイライフ / わたしの若草物語』と同じですね。)。リー・ワネル監督の『透明人間』の感想です。

えー、リー・ワネル監督というと、あれですね。あの、『ソウ』シリーズ(面白くはあるけど、このパターンは『キューブ』ありきだと思うんですよね。)の人ですね。で、更にプロデューサーが、P.O.V映画の先駆的作品の『パラノーマル・アクティビティー』(まぁ、これも面白いんですけど、こっちも『ブレアウィッチ・プロジェクト』ありきではあります。)を手掛けたジェイソン・ブラムさんなんです。だから、なんか、こう言うとちょっとチャラい(アイデア勝負のエンタメ物っていう)感じありますけど、じつはこのふたり、後にジェームズ・ワン監督と組んで『インシディアス』シリーズ(むちゃくちゃ怖くて面白い。)を作ってるんですね。で、更にジェイソン・ブラムに関して言えば、(確実にホラー映画の何某かを更新させた)『ゲット・アウト』や(更に不穏感が増して哲学的でアート的でもあるのにちゃんとエンタメ・ホラーな)『アス』(どちらも監督はジョーダン・ピール。)も手掛けていて、これはもう現行ホラー界ではかなりイケてるふたりが関わってるってことになるわけなんですが、ただ、このフィルモグラフィーからも分かるように、どちらかというとホラーの中でも新機軸というか、それまでのホラー映画から何かひとつ更新して行く様な作品が多いんですね。ということで、その人たちが『透明人間』なんてクラシックなキャラクターを使って現代ホラーにどうアップデートしているのかってところが見どころだと思うんですけど、やっぱり、そこは凄かったんですよね。

えー、まず、ちゃんと怖い(ここ大事です。このふたりが関わった映画はちゃんと怖いんです。それは、またジェームズ・ワン監督も然りなんですが。)。ちゃんとホラー映画と言いますかね、その空気があるんですよね。例えば、オープニング。暗い海の岸壁部分が映って、その岸壁に波がぶつかって砕け散る。そうすると波が掛かったところにタイトルとかプロダクション名とかの文字が浮かび上がって来るんですけど(つまり、岸壁に透明な何かがあり、そこに水が掛かったことで形が浮かび上がるという透明人間的な何かを示唆しているわけです。)、この海の薄暗さとか波が掛かって文字が浮かび上がるみたいなアイデアがとてもクラシカルで、往年のホラー映画観てるみたいな気分になるんですね。で、そういうタイトルバックなんかの不穏な空気感みたいなものがそのままこの映画の怖さに繋がってる気がしてですね。つまり、そもそも透明人間ていうのは"何が怖かったのか?"って話なんですけど。そういうのをめちゃくちゃ考えてると思うんですよ、リー・ワネル監督の映画って。透明人間て、もうそういうキャラクターになっちゃってるからその根源的な怖さが何から来てたのかって分からなくてなっちゃってると思うんですね。でも、普通に考えたら、自分の姿が見えないことをいいことに何でも出来てしまう人間が近くにいたらそりゃ怖いじゃないですか。そういう人間のゲスさと言いますか。それって、身バレしなければ割と恐ろしいこと平気で出来ちゃうっていう、今、正にSNSなんかで現実にある恐怖なわけです。だから、もうキャラクター化してて、SF的な意味で子供たちにも憧れられる様な透明人間の根源的な怖さっていうのは、なってみたいと思う最初の理由でもありそうな、「好きな子の生活を覗いてみたい。」っていうところにあるんだって言ってるんですよ。そういう時の人間の心理が怖いんだって。で、そういうことこそが透明人間に僕たちが感じてた恐怖の根源的な部分なんだってことなんですね。

ということで、今回はそこのところを全面的にやるんですけど。透明人間ていうのは特殊能力を持ったモンスターでも宇宙から来たエイリアンでもなく人間だっていう。人間の狂気が怖いんだっていうね。さっきの岸壁のタイトルバックから移行する最初のシーンが、主人公の(エリザベス・モス演じる)セシリアがある豪邸から逃げ出そうとするシーン(その逃げ出す経緯を見せることでエイドリアンが何か怪しい研究をしてることや、人里離れた場所にわざわざ暮らしている変わり者みたいなことが分かる様になってて映画的にも凄くスマートで上手いんです。)なんですけど、それは天才科学者のエイドリアンとセシリアが一緒に暮らしている家なんですね。要するに、エイドリアンというのはとても束縛の強い男で、そんな彼との暮らしに耐えられなくなったセシリアが、そうとう周到な準備をして遂に行動に移したってシーンなんです(それがストーリーの冒頭なんです。)。で、森を抜けて出た参道で待ち合わせていた妹の車に乗ったところで間一髪エイドリアンに追いつかれるんですけど、ぶっちゃけ、そこがこの映画の中でビジュアル的に一番ハラハラするシーンなんですね。あとはずっと精神的に追い詰められて行くだけなんです。例えばこの後、セシリアに逃げられたエイドリアンが悲しみのあまり自殺するって展開になるんですが、いや、ていうか、自殺はしてないんですけどね。それは分かるじゃないですか。こいつは自殺してないなって。だって、こいつが透明人間なわけだから。エイドリアンが自殺なんかしないことは観客の僕らには分かっているんですよ。じゃあ、この描写って何なのかっていうと、つまり、自殺しましたってことで自分の存在をないものにしてるんですね。物理的にも透明人間になって存在をなくしてるんですけど、自殺したってことで社会的にも存在しなくしてるんですよ。そうすることでその後の行動がしやすくなるから。こういう嫌な周到さがあって、どちらかというとセシリアはエイドリアンのこういうところに追い込まれていくんです。セシリアは(エイドリアンは透明人間になっていると確信しているので、)彼が常に近くにいるかもしれないということには(姿が見えないということ以外は)それ程苦しめられないんですね。それよりも、既に死んでしまっている人間を生きていると主張することでセシリアの方がおかしいんじゃないかと周りに思わせる様に、そうやってセシリアを社会的に孤立させようとするエイドリアンの束縛に対する狂気に追い込まれていくんです。で、これって要するにストーカーの怖さじゃないですか。だから映画のジャンルで言ったらサイコ・スリラーなんですけど、これ、「透明人間への恐怖感て今の時代で言ったらストーカーってことだよね。」みたいなことじゃないんですよね。それだと単に透明人間の話を現代風にアップデートしたってだけでそれほど面白さを感じなかったと思うんですよ。それが、透明人間という存在を突き詰めていくと、根幹の部分に人を社会的に抹殺しようとする様な根源的な狂気があるんだってところに行き着いてるというか、もともとの透明人間というキャラクターの怖さっていうのはそこで、そういうのみんな忘れてますよねってのがゾッとする様な怖さがあって面白かったんですよね。

で、こうなってくると、もうこれは陰鬱とした重い話になって行くんでしょ?とお思いでしょうが。こういうのをイケてるエンターテイメントにするからリー・ワネルとジェイソン・ブラムはスゲーって話なんですが(そういわれれば『ゲット・アウト』も『アス』も非常に重いテーマをホラー・エンターテイメントにしてたわけですし、そもそも『ソウ』シリーズだって人間の狂気に追い詰められて行くって話をスプラッター・ホラーに振り切ってたわけですしね。)、今回のも、本来ならただ一方的に追い詰められていくだけの役割であるセシリアを主人公にすることで、ホラー映画であるところの化け物に襲われて生き残る最後のひとりって構図になっていて。で、それが(この映画の場合)そのまま、セシリアの社会的立場の回復にもなってて、そこが現実的でもあるし現代的でもあるっていう。なのに、ラストの決着の付け方のハミ出し方なんか超エンターテイメントでむちゃくちゃスッキリするし(ちょっと、思い出した人多いと思うんですけど、タランティーノのあの映画のあのラストを彷彿とさせますよね。)で。ああ、これはやっぱりホラー映画だなって。いや、さすがのバランス感覚だと思いました。

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