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【映画感想文】宇宙探索編集部

香港映画は80年代にジャッキー・チェンやMr.Booなどブームだったので沢山観てたんですが、考えると中国映画ってあんまり観てない(『ラストエンペラー』も『初恋の来た道』も観てない。)なということで、今回は中国西部の村に宇宙人を探しに行く中国映画『宇宙探索編集部』の感想です。

えー、まず、この作品が1990年生まれのコン・ダーシャン監督による映画学校の卒業制作として作られたって話に驚きなんですが、そういうこと全く知らずに観ても何の遜色もない傑作だと思うんです。そもそもこの物語自体が、廃刊寸前のUFO雑誌の編集部が舞台で、かつて(90年代)にはもてはやされたこともあったが、時代の流れと共に廃れていったという。テーマ自体がマイナーでB級なものであり、更にそれを時代に取り残されてしまった主人公のタン編集長の情けない日常を追うというモキュメンタリー風(あくまで"風"なんですけど)に撮ることで大掛かりな機材を使わないことにもテーマ的な意味合いがあると思うんです。で、その中でかなり美しいシーンも多いんですけど、そういう計算された画面の美しさがモキュメンタリー的リアリティを薄れさせてもいるんです。監督が自分で決めたコンセプトを全う出来てないわけなんで、普通だったらブレて見えるというか、何がやりたいのか分からないって風に見えてもおかしくはないんですけど(まして、若い学生が撮ったものなんで。)、なんていいますか、モキュメンタリー的コンセプトを壊してでも美しい画を撮ってしまう監督のエモーションみたいなものと、劇中のタン編集長の人生を壊してでも信じたものに邁進する意志に対して、映画(人生)として面白いから「まぁ、いいか」的な赦しの感情が湧くんですよ。その(映画の中と外で起こる)"赦しの共有(=ある意味ゆるさです。)"みたいなものがこの映画(そして、映画が語っている物語)の持つ強さのように感じたんです。

だから、映画はタン編集長のほんとに情けない日常をただ追って行くことになるんですけど。まぁ、世間にそぐわない変人のズレた感覚を笑おうっていうコメディですよね。そういうていで作ってるんです。なので、もちろん笑えるんですけど、(このタン編集長を演じたヤン・ハオユーさんの演技力というか佇まいによるところも大きいと思うんでが、)ずぅぅっと物悲しいんです。例えば、いよいよ編集部が資金難だってことになって、出資してもいいっていうスポンサーを募るんですけど、タン編集長自体はそのことに乗り気じゃないんです。乗り気じゃないけどお金出してくれるっていうんだからむげには出来ない。で、編集部に来てくれた出資者に対して良い印象を与えようと思って、タン編集長が大事にしていた本物の宇宙服を着て披露するってことになるんです。でも、年代物の宇宙服なので脱ごうと思ったらヘルメット部分が脱げなくなっちゃうんですね。で、段々宇宙服内の酸素も薄くなる、なんとか取り繕いながら脱がそうとする、でも脱げない、タン編集長苦しくて暴れる、そんなことしても当然脱げない、編集部のみんな気まずい、出資者の人たちも気まずい、救急車出動、レスキュー出動、クレーン車出動、採取的に宇宙服切断っていうこの一連の見せ方、良かれと思って提案したことがどんどん大事になっていくのなんか俯瞰で見てたら笑っちゃうわけですよ。ああ、ダメな人ってこういうときにこうなっちゃうんだよなって。

でもですね、一連のその騒動の中でもタン編集長がこの宇宙服にどれだけの思いがあったのかとか、どれだけの夢を重ねていたのかってことは痛いほど伝わってくるんですよ(まぁ、このあとに映画の小道具としてレンタルすることになっていた宇宙服が破損してしまっているということでレンタル代を買叩かれるっていう更なるオチがつくんですが…。)。なので、もう、ずっと泣き笑いなんです。全く尊くなんかない、かつての夢を捨てきれないまま年を取ってしまった孤独な(しかも、周りを巻き込んでも責任も取れない)おっさんの悲惨で滑稽な姿を笑って観ているんですけど、常に心の片隅に「(ちゃんと仕事して家族を持っていろんなことに折り合いつけたつもりの顔してるけど、でも、)おれだってそうだ。」っていうのがずっと顔を覗かせて来るんです(だから、赦してしまうんですよ。赦しの余地を残してる映画なんだと思うんです。)。

で、そのあと映画は、タン編集長が(恐らく)最後の取材ってことで中国西部の村に宇宙人を探しに行くって展開になるんですが、ここでも出て来る宇宙人の存在を信じてる側のキャラクターの変人っぷりが凄くて、結局、宇宙人なんて信じてるやつらは変なやつらしかいないってことなんですけど(表面上は)。ただですね、これ、今の経済的にも政治的にもイケイケの中国からこの映画が出て来たってことが凄く重要だと思っていて。あの、いくら国をあげてイケイケドンドンの今の中国だって、その発展の中で取りこぼされちゃった人って沢山いるはずなんだよなってことなんです。で、そういう人たちがいるなら、なんていうか、まだまだ対話出来るじゃんてことなんです。メディアで報道されるのは、世界の脅威としての力を持った中国、経済大国として日本に来て爆買いする中国みたいなのばかりですが、そういうニュースにならない、報道が取り上げないところでの(国という大きなカテゴリーではない)個人の姿を描くというのは映画というメディアの力だなと思ったんです。で、この映画はそれを成し遂げているなと思ったんです。

取材旅行に行ってからの映画はタン編集長が生きる意味を探すとても哲学的なものになって行くんですが(もちろん、それと共に変人たちによる泣けるコメディも描かれます。)、その自己探求というミクロなものがずっとタン編集長が追い続けて来た宇宙っていうマクロなものと繋がった時に起こる、なんていいますか、怖さと開放感が入り混じった死(=生)の心理みたいなものに行き着くラストにはちょっと凄いところに連れて行かれた感がありました(映画だと、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、SFの金字塔である『2001年宇宙の旅』のスターゲイトのシーン、そして、A24の『ア・ゴースト・ストーリー』のラストで幽霊がほんとの死の意味を知るようなあのシーンに近い感じがありました。)。と、かなり哲学的なところに着地するんですが、この映画、同時にちゃんとSFっていうジャンル映画としてのオチもつけているんですよね。最後でまたモキュメンタリーとしてのリアリティを破壊してSFに着地してるんです。こういうところもとても愛おしいダメなおっさんの死に場所探しの映画でした。


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