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考えること-池田晶子と私・後編-

(承前)

 そんな彼女のサイン本を見つけたのは、いつだったのか……、実は正確な記憶がない。おそらくここ10年以内のことだと思うが、彼女が亡くなられたあとに手に入れたのは確かだ。だから当然、古書店で手に入れた。しかしこれもどこだったのかというのが、不思議なもので思いだせない。おそらく東京の神保町だったと記憶している。彼女は2007年に47歳で世を去った。……2007年と記して吃驚、あれから干支が一周したのだ。
 普通の書店(ここでいう普通の書店とは新品の本を扱う本屋の意味)で売られているサイン本は、基本的に本屋に訪れた作者が署名していくことが多い。すくなくとも「本物」であることは担保されている。物故者である場合、署名本は古書店で手に入れるほかなく、その真贋の判断は最終的に読者にゆだねられるのが、何とも悩ましい。どうやら池田晶子の署名本はあまり出回っていないようで、自分も実は手元にある一冊しか知らない。故に、本物であるかどうかは実は判らない。実際、落款印など「本物」である証左もなく、ただ池田某の名前だけがサインペンで記されたそれは、購入前に「本物かどうかは判らないけれど、それでもいいのなら……」と念押しをされて、手に入れたものだ。まさに曰く付きかもしれない。
 実はそれが物故者で初めて手に入れたサイン本である。故に思い入れが深い。
 確かに本物であるかどうか判らないものを愛でるのはどうかしている。しかし彼女の著作に触れていると、そのようなことすら些末に思えてくるのだから味わい深い。少なくとも自分は彼女がしたためたと思われる筆跡を眺めるたびに、何かしら思考することができる。些細なことなら、果たしてこれはほんとうに彼女が記した署名なのかどうか……、それだけでも夢を見ているようで少しうれしい。
 彼女の死後、世間と呼ばれる空間は、ますます混迷を極めている。未曾有の災害である東日本大震災、そこから復興の道半ばで世界規模のウイルス騒ぎ……。もしいま彼女が生きていたとしたら還暦を迎えた彼女は果たしてどういう切り口で、いまを俯瞰していただろう。その思考に触れたくてたまらなくなることがある。未曾有の大災害を眺め、彼女の思想は変遷していったのか。あるいは不変だったのか。
 不謹慎を承知で申し上げるが、東日本大震災が起きたとき、知っている人がほとんどいない東北の方々の安否より何より、一瞬で激甚と化した光景を前に彼女が何を思うか聞くことができないことにたいする喪失感が胸を充たした。ああ、池田晶子はこの光景を知らないのだと虚脱した。当時は中国地方でテレビを置かない生活、さらに夜勤中心の生活を営んでいたので、物理的に埋めようのない遠い場所での出来事という認識もその思いに拍車をかけた。かつて訪れた仙台空港が水没していた写真を新聞で目にしたのは、震災の翌朝のことだった。幸か不幸か、情報の洪水からは距離を置いた生活をしていた。これはいまにして思うと、幸いだったかもしれない。
 なぜなら自分でとにかく考えないといけないと心の奥で強く決意できたからだ。あふれる情報に惑わされず、まわりの時の流れの早さに流されることなく、生きていかねばならないと決意できたのは、やはりそのとき、池田晶子の不在がまざまざと胸に迫った時だ。
 しかし世間は、人はオンリーワンだとかいいながら、都合が悪いときはレールからはみ出すことを良しとしない。しかし情報やその他諸々の外的要因の洪水に、自分という存在まで呑みこまれる必要はない。池田晶子を読むほどに、その思いは強くなる。
 おのおのが大切に思う価値観は違う。自分はいつでもどこでも、小説か、あるいは本に関わることに関心が向いてしまう。地球規模で起こっている災害よりも、何よりも、私の敬愛する作家たちは今日も元気だろうか、とか、またいつかサイン会などでお目にかかれるだろうか、とかいう具合だ。そういう些末なことの方が自分にとっての大問題だ。
 池田晶子は著書、『十四歳の君へ』という本のなかで、友愛、個性、性別、意見、自然、幸福等、16の事柄について述べている。思想を押しつけるのではなく、ひたすらにそれらの事象を考えることの大切さを説いている。自分の筆力ではその魅力は全くもって伝わらないので、ここまで読んでみて興味を抱いた人は、今すぐ本屋に行っていただきたい。
 たとえば「絆」という言葉。あくまで自分の印象だが、東日本大震災以降、やたら声高に叫ばれるようになった。そして絆を全面的に押し出すような企画、たとえば歌を歌ったり、現地にボランティアに駆けつけたり、そういったことがもてはやされるようになった。だけど年を経るごとにどうだろうか。それらの行為に震災直後の勢いはあるだろうか。感染症が猛威を振るう中で立ち向かう猛者はいるだろうか。そして立ち向かう者を、いまの世の中は賞賛するだろうか。ウイルスが移るからくるなと、それこそ罵声で追い返す人がいないと断言できるだろうか。
 つまるところ、もてはやされた「絆」は普遍的に価値があるのかどうか、何かにつけて考えてしまう。ほんとうにそれが正しい善であるなら、感染症の世の中だろうが、いまも受け容れられなければおかしい。そして自分の中では、このことたいする答えは出ていない。しかし「絆」がそれこそ尊いならば、震災にしろ、コロナにしろ、そこにまつわる他人の悲劇を絆を隠れ蓑にして利用して、自分が得をする何かをやらかす人間はいないだろう。
 池田晶子を読みながら世の中の歪さを突きつけられる。ほんとうに歪みきっていて、不条理が世を覆っていることが浮き彫りになる。自分を含めたこの国の誰もが、善悪の判断すらついていないのではないだろうかと危惧したくなる。
 しかしそれを打破する究極の方法を、彼女は生前の著書で繰り返し述べている。兵器を使用するより遙かに平和な方法、『思考する』という武器であり、価値がある(金銭的な価値では決してない)『言葉』を使用することだ。これは毎日テレビで流れる中身がない言葉よりもはるかに尊い。
 池田晶子のことをほとんど書かず、自分の心の内をつらつら書いているが、ひとつだけ確かなのは、こういうことを考えるようになったのは、間違いなく彼女の言葉の力だ。正しい言葉の力だ。もし彼女の言葉に出会わなければ、ぼくは考えることを放棄していただろう。たとえば震災の時に「絆」を全面的に主張されれば、何も考えないまま「そうだ、つながりはすばらしい」と礼讃していただろうし、一年あまり続く感染症のワクチンにおいても「周りがみんな打つから……」と突っ込みどころ満載の付和雷同精神で生きていただろう。人は楽な方に流されるのが摂理。成功したいのに、努力をしないように。
 自分の考えが間違っているか、正しいのか、それは判らない。しかし確かなのは、彼女の言葉の力によって「考える楽しさ」を身につけた人間がいま、ここにいることだと思う。考えることの普遍性は、彼女の著書の至るところで生きている。考えることに、終わりはない。物事に正解というのも、意外と存在しない気さえしてくる。
 先に、名声を手に入れた人間が記した成功体験が殺人を犯したとき、その本はそれでも店頭に並ぶかどうか、疑問を呈した。彼女の『十四歳の君へ』を読むほどに、当たり前とされる価値観は揺さぶられる。置かれた立場、環境によって、その答えはまた十人十色だ。このあたりは一度、『十四歳の君へ』の「戦争」の項目を読んでほしい。特に安易に殺人は悪だと信じて疑わない方には、この項目だけでも読んでほしい。平和な国では欠け落ちてしまった視点を見せつけられるはずだ。
 最後に個人的に、『十四歳の君へ』から印象的な言葉を引用したい。
「誰もが考えてもそうであることは、大勢の人間がそう思っていることとは違う。大勢の人が思っていたって、間違っていることは、間違っている。(中略)本当に正しいことなら、、そう考えるのがたとえ君ひとりでも、正しいことであるはずだ」(同書P54-55から引用)
 この本が出てから15年、いまなお本屋では手に入れることができる。つまり誰かに必要とされているのだ。さて15年前に店頭を飾った成功体験談なるものは、いま、どのくらい書店で手に入るだろうか。ほんとうに正しい言葉は細々とでも、確実に生き残るのだ。
 これこそが普遍的な言葉が持つ力だ。世間の波にものまれない、強靱な力だ。ぼくはそう信じている。そう信じることができる本と、自分という人間をゆだねられるほどの書き手に出会えたことは、人生においてもっとも僥倖なことだ。
 
 ここまで池田晶子の本を読んで、自分なりに池田晶子にたいして、そしてそこからどんなことを考えられるようになったか、片鱗ではあるが思うところを書き連ねてみた。サイン本のことを綴るにはいささか異質な文章になってしまった。
 最後にひとつ、だましている気がしないでもないので告白しておく。
 実は、池田晶子の署名が入った本を手に入れたのは事実だが、それはこれまでさんざんここに書いてきた『十四歳の君へ』ではない。その本が出る遙か昔に出版された対談集である。その本にサインをされたとき、彼女はどのような目で未来を、世界を眺めていたのだろう。それを考え、そこから思いついたことを、思いつくまま思考の羽を広げられるのであれば、その署名が本物だろうが偽物なのだろうが、やはり些細なことである。
 少なくとも2007年まで彼女は存在していた。そして多くの言葉を残した。そして残された人たちに考える宿題を残した。そのことだけは、誰にも揺るがせられない事実だ。
 しかし、それでも彼女には問うてみたい。いまの世情をどう見ているのか。彼女の思考を分析したAIよりは、やはり生身の人間に尋ねてみたい。
 その問いかけはそのまま、生きている我々への問いかけになる。そして彼女は死してなお、我々に考えることの大切さを説いている。そう思えてならない。そしてますます、彼女が残したであろう筆跡が愛おしくなる。

(了)

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