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考えること-池田晶子と私・前編-

 前回は初めて手に入れたサイン本について書いてみた。
 さて、サイン会の話を……と思いつつ、今回もまた遠回りしようと思う。サイン本について語りだすと、自分でも忘れかけていた記憶が泉のごとくあふれだすからだ。
 20代になってから、サイン会に足を運ぶだけでは飽きたらず、サイン本を買い集めるようになっていた。確か日本で一番賑やかともいわれている(世界一かもしれない)東京は神田神保町の古書祭りを知り、足を運びだしたのもこの頃である。古書祭りでは中古のサイン本などを中心に買い漁るようにもなっていた。この頃には小説家のサインが入っていれば新品だろうが中古だろうがこだわらなくなっていた。中古のサイン本にまで手をのばした理由は後述するが、もちろん誰のものでもいいわけではない。
 サイン会は基本的に、読む作家、好きな作家、あるいは読んだことはなくとも小説家なる者をとにかくひとめ崇めたいからと、20代、30代の頃は新聞広告や書店の告知で見かけては足を運んでいた。そして会場となる本屋で、別の方のサイン本を見つければ、興味のアンテナが反応すれば見境なく買いあさっていた。いまとなっては引っ越しのさなか、失われたものも多いが(その中には後悔してもしきれないものもちらほら……)、物はなくても思い出が残っているのはまだ救いかもしれない。
 ところで小説や本好きは、基本的にふたてに分かれる気がする。死んだ作者が好きなのか、生きている作者が好きなのか。ぼくの場合は断然後者である。当然サイン会は生きている方でなければ開催は不可能である。サイン本を作るにも、生きているあいだでければ量産は不可能だ。生きていることは、それだけで可能性に充ちている。少なくとも作者と読者の両方が生きていないことには、一瞬の邂逅も叶わない。
 しかしサイン会といってもすべての小説家がしているわけではない。自分にはデビューしてから20年くらい追いかけている小説家がいるのだが、残念ながらその方のサイン会の知らせは聞いたことがない。情報不足でおまえが知らないだけだろといわれてしまうと、ぐうの音も出ないが。その方のようにサイン会をしていない、だけど敬愛している方を少しでも近くで感じたいとなると、やはりサイン本は魔法のような力を発揮する。手にすると、一般的に流通しているものよりも、遙かに著者のより近くで空気を感じられる。自分だけかもしれないが、サイン本にはそんな効用もある。
 話が少し変わるが、存命の小説家のエッセイや対談において、ときどき、物故者の名前が挙がり、興味関心を抱くことがある。死者はその瞬間、つかの間だが甦る。あるいは芥川賞、直木賞の過去の受賞作を遡っていくと必然的に「いま、いない人」に行きあたり、残された本に手を伸ばしたら最後、思いきり心をつかまれてしまい、沼に引きずられてしまうこともある。当然、どんな方だったのだろうかと思いを馳せていき、それこそお目にかかりたい気持ちが膨れることがある。
 残念ながらこの世にいない方は、どんなに頑張っても謁見することは叶わない。しかしサイン本の場合は、その気持ちがほんの少しだが充たされる。生前残した筆蹟から、その作者の空気を感じとれるからだ。
 そう気づいてから、ますますサイン本物色に拍車がかかったのはいうまでもない。本にしたためられた文字を眺め、触れることで、死者と生者は一瞬だけつながることはできるのだと思うとやはり気持ちは昂ぶる。……いや、死者と生者と分け隔てるのはやめよう。小説家と読者が、文字を通じていまという時間を共有できるのだ。これは奇跡に近いことだ。なぜならその本は、間違いなくいまは亡き著者が触れているのだから。そこにしたためられた文字をいろんな角度で眺めてみたり、指に触れてみたりして、亡くなられた作者の人となりを空想する。そんな楽しみ方ができるのは中古の署名本ならではかもしれない。
 いまは出版されてから絶版されるまでのスピードが速い。本は後世まで残るものだと思っていたが、最近のめまぐるしい早さを見ていると、本は、実は生鮮食品ではなかろうかと疑いたくなる。ということは、死者の紡いだ本は発酵食品といったところか。実際、気がつけば、自分が20代に読んだ本の大半は新品では手に入らなくなっている。
 しかし数としては少ないが、著者亡き後も、細々と本が生きていることがある。これがまさに、言葉の持つ力の極みだ。これを読んでいる人の中にも、過去に紡がれた言葉の魔力にとりつかれてしまった人がいるのではないだろうか。幸運なことに、私にはいる。そのうちの一人は、すでにこの場で、手紙という形でしたためたが野沢尚である。彼は亡くなられたとき40代だったから、いま生きていらしていたら60に届くか届かないか……。そういう方にたいしては、いまも生きていたらどんな作品を紡がれていただろうかと空想することも少なくない。彼が残した筆跡を眺めるたびに、様々な思いがいまも去来する。
 亡くなられた方にたいして、いま、生きていらっしゃったらと考えることは詮ないことだということは重々承知している。しかしそれを理解した上で、それでもこの世の中においてそれを考えずにはおれない人がいる。そんな方のサイン本を見つけてしまったらどうするのか……、それは買うしかないだろう。
 前置きが長くなったが、今日はそんな作家の話をしようと思う。作家……、と書いて悩む。そもそも彼女は作家だろうか。 著述家というべきか、はたまた文筆家というべきか……、彼女の本を勧めるとき、この疑問は絶えずつきまとう。
 人はオンリーワンだといわれるが、不思議なものでそのオンリーワンが欠けても世界は動く。作家の世界もそうだ。誰かが欠けたところで新しい人は出てくるし、やがては見たことがあるような作品が見られるかもしれない。もう少し技術革新が進めばAIが亡くなった作家のあとを、ゾンビのごとく書き継いでいくのかもしれない。もっともぼくはそのようなものは読みたくない。しかし彼女に関しては、そのパンドラの箱を開けてみるのはありかもしれないと、そんな不遜なことを思うことがある。いまこそ、彼女の言葉の神髄に触れたいからだ。
 いま、彼女の立ち位置には誰もいない。おそらく、これからも出ることはないだろう。
 その方の名前は、池田晶子という。哲学者のような、著述家のような、作家とも呼べなくもないような……、肩書きにおいては変幻自在の存在だった。彼女の晩年に、同時代の空気を共有できたことは、私にとって僥倖以外の何物でもない。いまの私は、彼女の残した言葉が少なからず血となり、肉となっている。少なくとも彼女の本に出会わなければ、何も考えない流されるだけの人間になっていたことだけは疑いようがない。
 彼女の立ち位置はぼくの中でもきわめて特異な場所にある。だいたいぼくの辞書の中では、作家と小説家はだいたいイコールで結びつく。理由は単純で、小説しか読まないからだ。いろいろな書物があるが、生鮮食品ばりに変化の早い出版界において、比較的普遍的なのは小説だと信じているからだが、池田晶子は間違いなくその考えに穴を開けてくれた。ただ残念ながら、それがそのまま哲学者なり、著述家なり、批評家なり、ぼくの中の作家の定義を広げてくれることはなかった。その点ではまさに「唯一無二」であった。
 以前、柳美里の話にも少し記したが、コスパ重視の世の中においては、「おもしろい本はこれなんですよ」といわれたら、「これ」だけが求められる。本屋に並ぶあまたの本は関係ないのだ。「これ」この一点があればいいのだ。
 そんな時代趨勢において、哲学なのかエッセイなのか、そもそも何者か定義できない人間が書いた本は手にとってもらうことは難しくなっているように見受けられる。そもそも何者か肩書きが定まらない段階で、「これ」といえないので、コスパ重視の世の中においては早々と脱落することは否めない。
 こういう世の中では仕事なり、何かしらの成功者が書き綴った成功体験談や名言録は好まれる。成功したい人間には最高のコスパだ。書店に行けば成功者なり、どこかの会社の会長なりがしたためた名言録なり、成功体験談なりが多く並んでいる。それらは人の欲をくすぐる。成功したい、ちやほやされたい、偉くなりたい……。意識しているかどうかを別にして、願望の最後にはこの文言がつく。できたら楽して、最短距離で。
 ぼくのたとえ話は若干悪意に満ちていることは否定しないが、成功体験談を披瀝する人と、それを手に取る人の心底はおおむねそういうところだと思う。
 実際、同じ内容を書いた本が二冊並んでいる。一冊は誰もが名を知る大企業で成功を収めた有名人Aが書き、もう一冊は特定の世界で知られているが全国的な知名度には劣るBが書いた。この場合、成功したい人はどちらの本に手を伸ばすかは自明の理だ。
 しかし考えてみてほしい。成功者の言葉は、果たして未来永続的なものだろうか。成功者の言葉は、成功しているから正しく見えるだけでないだろうか。実際にその成功者が何かしらの罪を犯したとして、収監されたとしたら、それでもその成功談は本屋の平台に並べられるだろうか。たとえば成功者が、何かの拍子に殺人事件などでも起こしたら、おそらく書店から消えるのではないだろうか。実際、殺人事件は大げさにしても、有名になったものの何かしら足下をすくわれて、失脚してしまうお方は少なからずいる。
 ほんとうにそこに書かれていることが普遍的な成功体験談なり、恒久的な名言であるなら、そのようなことで市場から姿を消すのはおかしい。いま売れている本のタイトルではないが、「たかが殺人じゃないか」。たかが殺人を犯したところで、(いまは殺人の善悪を述べているわけではないので、そこは誤解しないでほしい。それで目くじらを立てられても困ります)ほんとうに普遍的な価値を持つ事柄であるなら、つまり普遍的な言葉が込められた本であるならば、消えるはずがないし、古本屋で二束三文で売られることもない。つまりいつ、いかなる辛苦においても、そこにこめられた言葉は燦然と輝くはずなのだ。
 まさにそのことを体現しているのが池田晶子である。
 彼女はひたすらに物事を考えることの大切さを説いている。少なくとも私はそう受けとっている。そしていまなお、私に物事を考えるきっかけを与えてくれている。
 (次回へ続く)

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