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いまは亡き野沢尚様へ

突然のお手紙、失礼いたします。まさかいまになって手紙が届くことになろうとは、夢にも思わなかったでしょう。
 あなたの本に初めて手を触れてから、早くも22年もの歳月が過ぎてしまいました。高校時代、図書館からの帰り道に立ち寄った本屋で、『呼人』 という小説を手に取ったのが始まりでした。「少年は永遠の命を閉じこめられた」という帯の文句も、当時の自分には魅力的でした。
 いつまでも成長しない運命を背負った少年の話は、毎日受験勉強で代わり映えのない生活を送っていた私を、瞬く間に物語の世界に誘い楽しませてくれました。
 この本は1985年から始まり、2010年で終わります。この本を読んだ1999年は、2010年がやってくるのかどうか、そもそも自分が生きているのかどうかすら、靄がかかっていて見通せていませんでした。世紀末という、この世の終わりを彷彿させる言葉が流行っていたからかもしれませんね。しかしいま、その当時の未来だった2010年はとっくに過去となり、体験したはずのあまたの出来事が忘却の彼方に追いやられています。
 ところが不思議なことに読んだ本の記憶、サイン会などで出会った小説家との記憶、とりわけあなたのことは、曖昧な過去の記憶において、強烈な光をいまなお放っているのです。
 あなたの作品は私の琴線をどれだけ震わせたかしれません。その作品群について語りだしたら、一晩あっても、二晩あっても足りないでしょう。
 あえて申しあげるなら、江戸川乱歩賞を受賞された『破線のマリス』はテレビ業界に長らく身を置いていたあなたが、小さな箱の中で明滅する光の中に真実はあるのか否か、そもそも箱から放たれた情報は真実なのか否か、情報を根底から覆すような問いを投げかけており、その恐怖に身を震わせました。渾身の問いかけは、私のテレビとのつきあい方を根本から変えてくれました。いま周りに流されない私がいるとすれば、それはあなたの著書の賜物です。
 『破線のマリス』はそれだけではなく、遠藤瑤子という実に魅力的で不器用なヒロインがいました。賛否はあるのでしょうが、物語の最後で別れた息子と思わぬ形で再会するシーンがあります。私が小説で涙を流した初めての瞬間でした。私は活字の向こう側にあるせつなさに、作中の彼女の息子と同じように落涙しました。活字には人を考えさせるだけではなく、心を揺さぶる力があるのだと悟りました。
 いつかこの方にお目にかかりたい。サイン会や講演会でお目にかかる暁には、あなたの作品で、活字が持つ無限の力を信じる礎を与えられたことを伝えたい。ごく自然にそんな願いが芽生えました。そしてそれは生きていく上でひとつの目標となりました。
 あなたに関して、私にはどうしても忘れられない日がふたつあります。
 ひとつは2003年7月12日土曜日。この日は野沢さんが渋谷のある書店で、『ふたたびの恋』の発刊記念のサイン会を行う日でした。私は当時は遠方に住んでおり、また日々の激務から体調も崩していたこともあり、新聞でその告知を見たもののあきらめざるを得ませんでした。その代わり、その後舞台化された『ふたたびの恋』には劇場へ足を運びました。
 開演までの待ち時間、突然録音されたあなたの声が会場に響きました。サイン本の販売案内でした。眠気を誘うような、少し茶目っ気がにじむ声はいまもなぜか耳朶に刻まれています。買ったことはいうまでもありません。次は絶対に対面して目の前でサインを記してもらうのだと意気ごんでいましたが、そのいつかは永遠にくることはありませんでした。
 2004年6月28日月曜日、あなたは忽然と姿を消してしまいました。一度もお目にかかったことがないからでしょうか、いまなお現実感が伴いません。本屋に足を運んで小説のコーナーを覗くたびに、待てども待てどもあなたの新作がそこに並ばないことを確認し、その事実を咀嚼する次第です。
 まさか観劇した日に手に入れた本が、あなたの文字に触れられる最初で最後の機会になろうとは考えもしませんでした。どうしてサイン会の日、あなたの許に駆けつけなかったのだろうか。あなたの小説に対する思いをなぜ伝えられなかったのだろうか。あなたの訃報を告げる新聞記事と、『ふたたびの恋』のサイン会告知の新聞広告の切り抜きを眺めるたびに、いまでもやるせない気持ちがこみあげてまいります。思いあがりですが、私がサイン会の日に駆けつけてあなたに思いを伝えられていたら、あなたはまだこの世でさらに私の心を揺さぶっていたのだろうかと想像してしまうのです。
 あなたから教わったことは小説の持つ力だけではありません。くだんの『呼人』は歳をとらない永遠の命を与えられましたが、その永遠の命はまやかしに過ぎないのだという、ごく当たり前のことを示してくれたように思います。しかしそう感じるようになったのは、あなたが世を去ったずっと後のこと、私も歳を重ねたつい最近のことです。
 あなたが亡きあと、読書の幅を広げていく中で出会った小説家で気になる方がいれば、サイン会や講演会に積極的に足を運ぶようになりました。体調が悪くても新幹線や飛行機に乗りこんだこともあれば、借財したことも二度三度ではないように思います。それぞれの場所で、私はできる限り目の前の小説家にたいして思いを伝え、ときには横に待機する編集者の方々とも話しながら、つかの間の楽しいひとときを過ごすことを人生の楽しみとしてまいりました。読者として小説家にできることは、こういうことくらいしか思い浮かばないのです。
 しかしそこにあなたがいないことが言葉にできないほどにさみしく、せつない。あなたの作品に多くの啓示を与えられたにも関わらず、その当事者にお礼を述べることが叶わないのが、つらい。
 人は二度死ぬといいます。一回目はその方本人が死んだとき。そしてもう一回はその本人を知る人が死んだとき。
 早いものであと四年であなたの歳を追い越してしまいます。あなたが亡くなられたとき、途方もなく遠くに思えた時間がもう目前に迫っています。
 私はできることならば健康にあなたの歳を追い越していきたい。そしてこれから出会う小説愛好家がいれば、あなたの作品を道しるべとして差しだしたい。あなたの作品で語り合った知人とは、これからもときどきでいいからあなたの作品について語り合っていたい。それがあなたに魅了され、残された者の使命であるように思います。私はまだ、あなたに二度目の死を見てほしくはないのです。
 いつか直接、あなたに一言お礼を述べられる日が来ることを、心より楽しみにしております。


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