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コラム【可能性のフロンティアは「どちらでもない」ところにしか残っていない】〜前編「知覚照射」について #018


■可能性とは???


一般的に「可能性」というと『未来の明るいイメージ』だとか『実力を発揮できるフロンティア』という印象があると思う。
だとするなら、ほとんどの人の、ほとんどの場面で可能性など2ミリ程度しかない。

この言葉が使われること自体が幻想であり夢想だ。

【可能性】は可能でも不可能でもない曖昧な領域のことを指す。
可能に転んでもいない・・・だから「できる」とか「知っている」と言い切れないし、不可能にも転んでいない・・・なので「できない」「無理」だとも言い切れない。
・・・・というと、結構無数に可能性があることがわかる。

もちろん「願えば叶う」とか「口にしていれば誰かが届けてくれる」というようなおめでたいものではない。
信じて実行すれば実現する・・・というちょっと頭の悪い人の考え方ももちろん違う。

無数に可能性があるのにあまり見受けられない理由は何か?


■「可能」によって固定される


私たちは子供の頃の方が未知の世界になんの憂いもなくダイブする。
社会人になってからも、若いということのメリット、エネルギーがあるとか何かを成してやろうとする気力と意欲が高い。
この理由は簡単だ。

私たちは、

可能
可能性
不可能

の3つの領域を持つ。
若いうちは「可能」の数が少ない。「不可能」の数も少ないが、不可能だと分かりきっていることはそもそも手をつけないので考える必要がない。
考えるべきは領域の多くを占める「可能性」だ。

何が「可能」かあやふやで、現状いくつもの物事を可能にするポテンシャルがあるなら→人は「可能性」の領域で暴れようとするだろう。

しかし経験を積むと様子が変わってくる。
これまではどちらに転ぶかわからない「可能性」の領域が広かった。しかしそこで暴れ回った結果、ある物事は「可能」に、別のある物事は「不可能」に振り分けられた。目の前に出てくる新しい物事が、次々と可能のフォルダか不可能のフォルダに振り分けられる。
年月と共に「可能性のフォルダ」のデータは少なくなり、「可能フォルダ」と「不可能フォルダ」に情報が配分される。

「不可能フォルダ」こそ使っていくぞとはならないので、私たちは必然的に「可能フォルダ」を整理して再利用する。
これまでは不可能領域で暴れていたが、これからは可能領域で淡々と可能なことを成し遂げるようになる。

これが人を可能性の領域に踏み出させなくなる理由だ。


■可能性領域はどのくらいエンプティなのか?


結論を先に書こう。かなりの空き容量がある。
256MBのiPhoneを使っているなら、156MBぐらいは空いている。

正直なところ、個性や資質、強みや人格はまだまだ豊富にバリエーションがあり、外の世界で活躍しやすい「親和性の高い場所」も無数にある。人間関係も今付き合っている最高の人よりも、もっと心が通じ合ったり意気投合できる人がいる。
しかし私たちはふと気がつくと「そういうことはもういい、やらない」となっている。

つまり「可能性はまだまだありますよ」ということだ。

なのになぜ踏み出さなくなるかというと、可能の分量が増えたために
「可能性は踏み出しても上手くいく上手くいかないは五分五分だ」
「なら上手くいく確率が100に近い可能だとわかっていることをやった方がいいじゃないか」

という理屈による。

人はいつの間にかできることしかしなくなり、好きなものしか接さなくなる。
だから「できること以外」をやろうだとか、「好きなもの以外」も受け入れようなどという場面に遭遇すると『いや、結構です』と返すようになる。

「できる」「好き」を手にしたいならそのままでいいだろう。
逆に「できない」「嫌い」その結果「不愉快」になることを避けたいなら不可能フォルダに入っていることを避ければいい。
だが、「できる・できない」「好き・嫌い」「快・不快」がわかっている物事に可能性は絶対にない

仕事なり人間関係、休日やプライベートが充足している人は、おそらく「できる」と「好き」に長けている。少なくとも「できない」と「嫌い」を上手に排除している。
その人はたぶん笑顔で過ごしているだろうし、家族や友人とも仲がいいだろう。仕事では力を発揮しているだろうし、職場の人間関係も円滑かもしれない。こういう人はつまり可能性がない。

可能な領域を伸ばし、不可能な領域を極力減らしている。
可能性領域は「昔やったこと」であって今は「もういい」となっている人の図式がつまり上に書いたモデルケースだ。


■好き嫌いがはっきりしている場所に可能性はない


毎日が上手くいくかどうか、心地いいかどうかではなく、自分を十全に使っているかだとか心の求めが残っているような気がするという人は、その答えを「可能」「不可能」の領域に見つけることはできない。
好き・嫌いがはっきりしていることや、できる・できないがはっきりしていること。責任があるところ・いい加減なところ、みんなを引っ張る・人についていくなど、ハッキリと自覚できている自分の中に答えを見つけることはできない

好きでも嫌いでもなく、できるでもできないでもなく、責任があるともないとも言えず、人と協力するとかその方法がどうだとかさっぱりな、ごくごく普通なことの、ニュートラルで手をつけていない分野に答えがある。
その分野が「可能性領域」だ。


■知覚照射


人は知らないものを考えたり感じることはできない。
そして可能性は自分がまだ知らない物事の中にしかない。

知らないことをやってみるとか、知ってみる。学ぶとか感じる。体験や経験する。すると初めてわかることが出る。ちょっとした気づきの数が多いが、それよりも多いのは「何の気づきにもならなかった」だ。
この労力の無駄を嫌って、可能にしがみつく人は多い。だがそれでは可能性の扉は開かない。

ちょっとした気づきの上に、もう少しいい感じの気づきが出る。
知らないはずのことを経験したのに、なぜか初見でこれはいいだとか、これは嫌だとわかる。または何も感じない。
知らないことを自分の資質に当てて、結果どのような影が浮かび上がるのか?と確認する方法を知覚照射という。
形がよくわからない物に、ライトを当てると影ができる。色々な方向からライトを当てると様々な影の形がわかるようになる。総合的な影の形からそれがどのようなもので、どんな形をしているのかがわかったとき「可能性」が「可能」になる。これが知覚照射で知覚照射は、自分の中に眠る可能性を起こすことを可能にする。

「やったことのないことを何でもやればいい」というのはやや乱暴な考え方だ。最初はそれも悪くないが、不可能フォルダに振り分ける作業ばかりしていると人は嫌になる。嫌になると止めてしまう。
それだとやった意味がない。

知覚照射のコツは、あくまでニュートラルの数をやってみたり、手に入れたり、習得したりすることにある。最初から確率論だと割り切って、目の前にあることややりやすいものからやる。
やっているうちに興味が湧いた「知らないこと」をやるといいし、同時に興味が出たとも出ないとも言えないものもやるといい。
つまり可能性を開きたいなら、セオリーは知らないことの分量を増やせということだ。

知っていることの組み合わせで新しい物事を生み出す人は、そういうイノベーションの形が可能性を訴求したと勘違いしている。それは素晴らしいことだが「可能性」ではない。どこまでも「可能」でしかない。
可能性に取り組むなら、分野ジャンルごと知らないことを自分の世界に取り込んでいく必要がある。例えばドラッカーは毎年1つの分野を集中的にやると決め、実際やった。経営学の父と呼ばれているのに、ある1年は日本の浮世絵に傾倒した。
本でも映画でも、漫画でもドラマでもいいが、色々と見まくるのもひとつの良い方法だ。だが現代の有利なところは、YouTubeの動画をジャンル問わずなるべく幅広くずっと見るだけでもきっかけやとっかかりになる。

正直なところ、知覚照射にYouTubeは有効で、可能性の扉を開きたい人はYouTubeを見続けることからはじめるといいと思う。

✅ 今回の内容は昨日開催した「本質思考トレーニングコース」から

コラム後編はこちらから



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