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無意味なルールには意味がある

この社会には一見何の意味もないルールがたくさんあります。どうして中高生は制服を着たり決められた髪形をしなければならないのでしょうか? これはサラリーマンも同じですね。それを説明するのが「儀礼」です。

このコラムでは、社会学者のエミール・デュルケムが唱えた儀礼論の中で扱われている「儀礼」について説明しています。儀礼は、宗教の形式化された行動様式に留まらない、興味深い内容を含んでいます。現代にも確かに息づく人間集団の営みを表わしているのです。それでは、儀礼の特徴とルールについて説明していきましょう。

(読了時間:約5分)

儀礼は、グループ(あるいはコミュニティ)を作ることを目的としたルールのことである。儀礼の交換(やりとり)によって、グループは維持される。

儀礼は、ルールの一種です。ルールは、人が何をして何をしないのかを条件づけます。儀礼は、その中でも特にグループを作ることが目的のルールをさします。言葉遣いやちょっとした所作、恰好、お決まりのあいさつはどれも儀礼の一種であり、その表れです。

儀礼は、グループのメンバー同士でやりとりされます。そうすることで、グループは維持されます。なぜなら、儀礼を交換することで、グループが散りぢりにならないように関係性を更新しているからです。儀礼はグループを作る働きを持っています。それを繰り返せば、グループは維持できるのです。


儀礼によってそのグループに所属しているかいないかを区別できる

儀礼を守る者はグループの一員とみなします。これに対して、儀礼を守らない者はグループの一員とみなしません。同じルールを守っている似たもの同士は集まり、そうでない者は相対的に疎外されることになります。


儀礼を守ることは、すなわちグループへの貢献である

儀礼を守ることは、すなわちグループの維持に協力しているということになります。多くの貢献をするメンバーは、しだいにグループ内での社会的地位を高めていくでしょう。つまり儀礼を守る者は地位が上がります。逆に、儀礼を守らない者あるいは破る者は、地位が下がります。


儀礼には”必ず”「儀礼の対象」がある。これを「聖なるもの」と呼ぶ

「聖なるもの」は宗教における神や仏のような特別な存在です。ですが、聖なるものはこれらだけではありません。たとえば、学校における「聖なるもの」は教育です。企業では、社会貢献あるいは収益ということになるでしょう。「聖なるもの」は、そのグループの中でもっとも大切なものなのです。現代の社会における「聖なるもの」は個人という概念です。個人がとても大切なものだから、人権というルールによって私たちを守ろうとしているのです。


多くの人々は、儀礼の目的は「聖なるもの」のためだと思っている。しかしそれは間違っている

多くの人々は、大切なものを守るためにルールを守っていると考えています。企業なら、多くの収益を守るために商習慣を守っていると考えているはずです。しかし、もう1度いいますが、儀礼の目的はグループを作ることです。つまり、ビジネスマンというグループを保つために商習慣が存在しているのです。


聖なるもののない儀礼は、形骸化した儀礼である

儀礼は時として形骸化します。なぜなら、「聖なるもの」つまりルールを守るための目的だと思っていた何かが時間経過や環境の変化によって失われてしまうからです。しかし、形骸化しても、儀礼はそのまま残り続けることがあります。なぜなら、たとえ「聖なるもの」を失っても、儀礼はグループを作り維持するという目的を果たし続けているからです。加えて、高い地位を人は、たとえ形骸化したとしても儀礼をなくしたり変えたりしたがりません。なぜなら、彼らは今の儀礼を守ることで社会的地位を得てきたからです。なので、その方法(=儀礼)を失えば、自分の地位も共に失ってしまうかもしれないと考えるのです。


あるグループの人にとって、聖なるものは重要なものである。これに対して、グループ外の人にとっては風変わりで無意味で非合理的なものかもしれない

儀礼は、ちょっとした行為によって示されます。あいさつの様式、おきまりのやりとり……。そういうものはグループの外にいる人からは、どうしてそういう行動をするのか理解しがたいものです。

たとえば、私たちがあいさつの際にする「おじぎ」です。おじぎをするとき、その角度が急であるほど、より強い敬意を払うことになります。状況や相手によって、角度を使い分けているのです。ですが、そもそも敬意の大小をおじぎの角度で判別するのでしょうか? おじぎを知らない人からすれば、あの人はどうしてあんなに体を曲げているんだと困惑するでしょう。それは、ニュージーランドのマオリ族があいさつのために鼻をこすり合わせるのを見て、私たちが困惑するのと同じです。


儀礼を守ることは、すなわち聖なるものを尊崇することである。儀礼を守らないことは、すなわち聖なるものを冒涜することである

儀礼を守ることによって、聖なるものは保たれます(実際は、これに加えてグループの維持もしています)。聖なるものは、そのグループのメンバーにとって大切で価値あるものなので、そのメンバーたちは、聖なるものと自分自身、グループをまとめて同一視しがちです。そのため、儀礼を守らないことは、聖なるものの否定だけでなく、グループのメンバーたち、ひいては自分自身の否定にも通じます。


あるグループの人は、自分たちの守っている儀礼を守らない人に対して怒りを感じる。一方で、自分が守れないときは後悔や恥ずかしさ、罪悪感や恐怖を感じる

人間は自分を守るために怒り覚えます。儀礼を守らないことは、先に述べた通り、自分自身の否定という側面を持ちます。だから、自分(とその仲間たち)を守るために怒りを感じるのです。

一方で、自分たちが儀礼を守らなければ怒りを感じ攻撃をするからこそ、もしも自分が儀礼を守れなければ攻撃されるだろうという予想もします。そのため、ルールを破ると後悔や罪悪感、恐怖を感じます。恥ずかしさは、自分のふるまいが何かしらのルール(あるいは期待)に反したときに生じる感情なので、これも感じる可能性があります。


儀礼は複雑で習得するコストが高い。場合によっては実行するコストも高い。そのため、儀礼はフリーライダーを抑制する

集団に属することで私たちはさまざまな恩恵を受けることができます。しかし、集団を維持するためにはコストがかかります。ですから、集団を維持するためのコストを支払いつつ、集団からの恩恵を受けているのです。

フリーライダーは、集団からの恩恵を受けているにも関わらず、コストを支払わない存在です。フリーライダーがタダ乗りした分のコストは、別の人が多めに払うことになります。もしも彼らは増えてしまえば集団を維持するのは困難です。そのため、儀礼によってメンバーを区別し、簡単に集団からの恩恵を享受できないようにするのです。

まとめ

儀礼は、グループ(あるいはコミュニティ)を作ることを目的としたルールのことです。儀礼を守るか守らないかによって、グループのメンバーを区別することができます。

儀礼を守ることは「聖なるもの」を尊崇し、グループ内での地位を上げるものです。これに対して、儀礼を守らないことは「聖なるもの」を冒涜し、グループ内での地位を下げるものです。守らない人に対して、メンバーは怒りを感じます。一方で自分が儀礼を守れなかったときは、恐れや恥を覚えます。

オススメ

私が儀礼論を知ったきっかけです。面白い!

おわりに

儀礼論は、それ単体でもとても面白いものです。これを社会心理学と組み合わせると、更に社会のしくみが分かるようになります。私もまだ勉強中ですが……。

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