見出し画像

カリスマの力は借りものだ

このコラムでは、社会的交換理論と、以前書いた所有のルールを元に、支配と服従、そして信頼の仕組みについて説明します。人は支配できるのかできないのか、論理の行ったり来たりをお楽しみください。

(読了時間:約6分半)

服従を交換で説明しよう

社会的交換理論とは、「交換」という観点から、社会活動(あらゆる社会のやりとり)を解明しようという理論のことです。社会学者のブラウやホーマンズによって提唱されました。

しかし、「権力」つまり支配服従の関係は、一見すると交換理論から説明できません。なぜなら「交換」は、等価交換が原則で、さらに両者がお互いに納得や合意しないかぎり生じないからです。支配と服従の関係は等価ではなく、服従なんてイヤなことを合意したがる人はいないはずです。

そこで、彼らは「服従する」ということを財、すなわち「交換できるもの」として捉え直しました。支配する人に対して、服従する人は十分な「お返し」ができません。よって、何かを得る代わりに、同量の服従をその相手に与えるのです。そうすることによって、支配と服従にも、交換の等価性と合意性があるのだと考えました。

服従は、有形(形のある)のモノ同士のやりとりではありません。もちろん、サービスのような無形(形のない)モノも経済的やりとりには含まれますが、服従は経済的な財でもありません。

そこで、彼らはこれを「社会的財」と名付けました。服従は、一般的な経済的な(お金になる)財ではありませんが、交換できるモノなのです。

なんでも所有物になるし、なんでも財になる

「財」とは、別のモノを得るために交換できるモノのことです。人は、そもそもいろいろなモノを持っています。

モノを持つ、すなわち「所有する」とは、他の人より優先してモノを「扱う」状態を示します。「扱う」とは、①使う、②手放す、③保つ、④変える、という4つの行動をまとめた言葉です。

人間の所有物は多岐に渡ります。服飾品や道具のような有形の分かりやすいものから、空間(たとえば部屋やパーソナル・スペース)、時間(寿命や労働時間)、感情のような無形のもの、果ては価値観や責任もすべてモノであり、人間が所有できるモノたちです。

社会的財という言葉は、そういう人間の所有物のほとんどを交換できるモノということにします。

「交換」とは、「使う」ことの一種です。人はモノを使うことで、別のモノを手に入れることができます。交換も他者からモノを手に入れる手段。だから、ふるまいは似ていますが、あげる・譲る(手放すの一種)とは違う行為なのです。

ということは、社会的財という考え方を使えば、人間は自分のいろいろな所有物を、どんなモノとでも交換できることになります。人である自分自身すらも所有物の1つならば、それを財として交換に出すことで、支配と服従という関係も説明できます。

支配ってダメでしょ。所有のルール的に

ところが、支配(言い換えると強制)は、所有のルールから見ると違反にあたります。なぜならば、人はモノではなく、他の人が所有権を持つモノを許可なく扱えば、それはドロボーと同じになるからです。

人をモノに見立てることはできても、人はモノではありません。なので、勝手に扱ってはならないのです。

ということは、社会的財という言葉を用いても、人は服従することはないのでしょうか? いいえ、そんなことはありません。服従を人の「行為」として捉えればいいのです。

「行為」は人のモノのひとつです。服従とは、ここでは「強制」と同じ意味です。すなわち「他者の意志によって行動を決める」ということ。本来は、自分の行動を決めるのは、自分の意志です。しかし、その行為の決定権を他者に譲るのです。すると、強制を受け容れる、服従の成立です。

支配ってムリでしょ。所有のルール的に

しかしながら、行為の決定権は譲れません。なぜなら、所有物への決定権は、生まれつき誰もが持っていて譲ることができないモノだからです。もしもそれを譲ったなら、その人は人じゃなくなります。

だから、人間が服従することはできないし、してはいけないのです。

……と言いたいところですが、やはり服従することは可能です。なぜなら、どのように所有物を扱うか決める権能(できるし、してもよいこと)を譲ったりもらったりすることはできなくても、貸したり借りたりすることはできるからです。

権力とは、借り物である

貸す・借りるとは、モノの所有権は貸す人のままで、モノの使用権を借りる人のモノにすることです。モノへの優先権の一部移譲と言えますね。

先も述べた通り、モノを扱う行為は、おおまかに4つに分類できます。その「扱う」行為の内、借り物は使うことと保つことだけが許されています。翻って言えば、手放したり変えたりはしてはいけません

よって、服従するとは、自分の持つ行動の優先権を他者に貸すことなのです。権力とは、他者のモノを自由に扱う権利を借り受けている状態。だから本質的には、権威(自分の意志によって行動を決定する)は、決して失われないのです。

あらゆるリーダーやカリスマの力は、借り物にすぎないのです。


……議論はここで終わりません。

信頼も譲れないモノ

人には、所有の権能(≒所有物への決定権)以外にも、占有しかできない、他者に譲ることができないモノがあります。その1つが、意志すなわち感情欲求です。

さらに、それに紐づいた「信頼」もまた、譲ることができません。たとえ、ある人に自分の仲間が信頼を寄せていたとしても、自分は信頼しないということは可能ですし、許されています。

とすると、信頼によって他者の力を使うことはできても、それは力を借りているだけで、他者自身を手にしたことにはならないということが分かります。それだけでなく、その信頼は他者自身の心の中だけにあるのだから、なにかしらのきっかけがあれば、力を借りられなくなりますし、(今までの議論の範疇において)それはルール違反とはならないのです。

まとめ

支配すなわち強制することは、自分の意思によって他者の行動を決定することです。この力を権力と呼びます。

権力は、他者の持つ所有の権能の一部を、借り受けている状態に過ぎません。なぜなら、所有の権能は、譲ることができないからです。

なので、人は支配や服従することはありえますが、本質的には権威、すなわち自分の意志で自分の行動を決定する力そのものを、なくすことはありません。

同様に(譲れない)感情に基づいた「信頼」も、借り物なのです。

オススメ参考文献

社会的交換理論を知ったきっかけです。

おわりに

今週はずっと「罪」と「罰」について考えています。その過程として社会的交換理論をさしはさみました。

罰と服従って、近い概念だと思うんですよね。なので、服従をより精緻に捉えられるようになることで、知りたいと思っていることが分かるのではないかと期待したのです。

きっかけはさておき、この概念そのものが考えていて面白かった。さらに書いていてテンション上がりました。議論の行き来、テーゼとアンチテーゼの応酬によって、より論理が収斂(しゅうれん)され、洗練されていく感じ……。何度繰り返しても、楽しい! 考えてよかった。

よろしければ、スキを押していただけましたら幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?