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愛する人の肉体が、銀を媒介として不滅のものとなるのである。

写真を撮りたい。撮られたいという欲望。

「この瞬間が素敵だなと思ったから撮りたい」という単純な動機の時もあれば、「好きな人の美しい姿を永遠に残しておきたい」という情熱的な欲望に燃えている時もあるんだと思う。

タイトルの「愛する人の肉体が、銀を媒介として不滅のものとなるのである。」は、「ロラン・バルト『明るい部屋――写真についての覚書』、みすず書房、1985年」からの引用である。(正確には、「なにしろ、愛する人の肉体が、ある貴金属、つまり銀(記念するためのものでもあり豪奢なものでもある)を媒介として不滅のものとなるのである。」)

この本では写真についての私見が述べられていて、銀塩を感光材料として使うフィルム写真の話の一部として先の引用が登場する。

「愛する人の肉体が不滅のものとなる」という言葉に私は心を射抜かれた。

写真を撮りたいと思う時、撮られたいと思う時、私は無意識にこれほど強い欲望を抱いているかもしれない。

とくに好きな人に写真を撮ってほしいと願うとき。

1つの思い出として残したいという気持ち以上に、あの人に今の自分をしかと目に焼き付けてほしいと思っている。

写真に撮られたあの瞬間は未来栄光訪れることがない。しかし1つの画像として永遠に繰り返し表される。

そのことが特別愛おしいし、崇高なことだと感じる。

写真に撮られた自分は決していつも美しく映ることはない。

綺麗に映らなかったときに恥のようなものが出てくる。

だから本当は好きな人になんて写真を撮られたくない。

でも、その人との関係が永遠だとは限らないし、今の私の姿も永遠ではない。

だとしたら、今この瞬間の私を、あなたと幸せを共有している私を写真に収めてほしい。

そしていつの日にか思い返して、穏やかながら恋焦がれるような気持ちになってほしい。

好きな人の永遠でありたいし、見果てぬ夢でありたい。


昔は写真を撮られることで、今の私が暴かれることや止まってしまうことが嫌だった。

捉えどころのない蝶のような存在でいたかった。明確な私の姿を記録されることが嫌だった。

しかし今はたとえ写真に撮られたとしても今の自分を暴ききることなんてできないと思う。それに1分1秒ごとに自分はかたちを変えていき、どんどん進んでいくから正確な私を把握することなど不可能である。

きっと写真にはベースの私にその時の個性が付随して写る。

だとしたら後でその時の私を見ることはとても楽しみだ。


写真を撮りたい、撮られたいという欲望は複雑な感情や葛藤が絡んでいる。

「たいしたことがない」

そう思われるリスクがある中で、今の私は好きな人たちに写真を撮られたい。そして撮りたいと思っている。

いつもありがとうございます🤍