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Art|第3回印象派展は、ショールームだった?

先週のアートの投稿で、印象派の絵の売り方について書いたら、多くの人に読んでいただけました。

印象派のエピソードでもう1つ好きなものがって、今日はそのことについて。

印象派というディスりも栄誉にかわった

印象派」と呼ばれることを好んでいなかった印象派のメンバーですが(くわしくは前回のnoteを!)、第3回の合同展覧会頃から「印象派の画家たち」と自分たちを名乗るようになります。

パリの批評家、全員が印象派を否定していたわけではなく、彼らを新しい画家と歓迎する人たちもいました。なかには「印象」を科学的に解釈して、「脳に伝わる前の、純粋な視覚に基づく映像」といって、優れた感覚の持ち主たちであるというような意見も。

そして、その第3回展は、全8回の印象派展のなかでももっとも充実した展覧会でした。しかも作品一つひとつのクオリティだけでなく、彼らはお互いの作品をどう展示するかという展示空間の演出にも挑戦します。

たとえば、次の2作品は展覧会場の第1室の人物画をまとめた部屋にまとめました。

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ピエール=オーギュスト・ルノワール
すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢
1876年 アーティゾン美術館

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ピエール=オーギュスト・ルノワール《シャルパンティエ夫人
1876年 オルセー美術館

次の2作品は、都市と田舎を対比して表現しようとする第3室に飾られました。

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ピエール=オーギュスト・ルノワール
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年 オルセー美術館
1876年 オルセー美術館

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カミーユ・ピサロ《赤い屋根
1877年 オルセー美術館

そして、第4室には、近代都市の象徴である汽車を描いた作品が並べられました。

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クロード・モネ《サン・ラザール駅
1877年 オルセー美術館

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ギュスターヴ・カイユボット《ヨーロッパ橋
1876年 プティ・パレ美術館(スイス)

展示会場をショールームのようにした

前回のnoteにも書いたのですが、それまでフランスでは、政府主催の公募展の官展に入選しなければ、画家として認められず、作品も公に展示することはできませんでした。

そこを、新興市民の台頭と、そこにマーケットを見出した新しい職業の「画商」が生まれたなかかで、画家たちによる合同展覧会という新しい販売方だったのが「印象派展」でした。

つまり、新しい顧客に対応するためには、自分たちで作品をPRして売っていこうというわけです。

それまでの販売方法は、官展に入選してクライアントをつけて、そこから発注を受けるという完全受注生産でした。そのため、クライアントが例えば教会だったら、「礼拝室にふさわしい聖母子の絵を」だったり、「新婚の娘夫婦の寝室に飾る、少しエロティックな絵を」というように、場所と作品の関係は、ほぼクライアントが決定してきました。

つまり画家が自ら絵の主題を考えることは、近代以前ではほぼあり得ませんでした。

それが、印象派たちの時代になって、買い手がいない中で作品を描くことが起きてくると、絵を展示する場所との関係が希薄になってくるのは想像に難くないことです。

そういった中で、第3回展はそれまでスタジオや画廊だった会場を一般的な住居に移して、より展示のイメージがつきやすいようにしたり、さきほど紹介したように、お互いバラバラに描いた絵を、コンセプトの違う展示室に振り分けて、空間の統一性を図ろうとしています。

そこには、「こんな風に飾ると、あなたの部屋がイケてる感じになりますよ?」というように家具メーカーのショールームのようにしてまで「絵を買ってもらおうとした」、画家たちの泥臭さを僕は感じずにはいられません。

もちろん作品と作品が織りなす偶然の効果も生まれたでしょうし、こういった作品と作品の共鳴による新しい創作効果のようなものは、のちのモネの連作にも影響があったんじゃないのかな、と勝手に僕は思ったりしています。

前回のnoteの結びにも書いたのですが、印象派の画家たちは、革命的な画法を生み出したただけでなく、「自分たちの絵の売り方を自分たちで作っていく」というビジネス展開を始めたことが、僕は実は一番画期なことではないかと思っています。

良いプロダクトを作るだけでなく、その売り方も考える。

何度もいうことですが、だまっているだけでは物は売れない。そんなことを考えさせられます。

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明日は「Food」。久しぶりに開催したポップアップイベント「無機質なモノとの奇妙な一致」についてです。

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