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なぜ発達障害者とネグレクトを受けた子供は社会に適応できないのか?の根本原因

社会に適応できない人々の中でも多くを占めるのが、発達障害者とネグレクトを受けた子供であると思う。
学校では問題児扱い、社会に出てもいわゆる普通の人と一緒にできない。
コミュニケーションが不得手であり、そこから発する諸問題により「適応できない」との烙印を押されてしまう。それも自己責任として。
ここでいう社会に適応できないというのは、本人がそう思っていること、そう思わざるを得ないと感じていることを指す。
発達障害とネグレクトを受けた経験のある人々が社会に適応できないのは、社会がそうさせているからに他ならない。
本人たちには何の責任もなく、結果的にそうならざるを得なくさせられているのだ。
それは社会が社会を維持させるために人を階層分けし、人々をそう仕向けているからに他ならない。
ここから社会を掘り下げていこう。

なぜ社会は必要なのか?
それはサピエンス全史でもあるように、農耕=収穫物→所有権の発生、そこから必要とされ発生した村や国家の誕生とその維持のためである。
現代の都市のような集団生活が始まったのはほんの数万年前からであり、人類はその前から何万年もの間、多くても100人程度の集団で暮らしていた。
サピエンス全史の結論のように、農耕のために急激に膨らんだ人口を維持するためには社会が必要であり、そして一度大きく発達してしまうと社会をやめることはできない。
いま東京で社会機能が停止して無法地帯となったらどうなるであろうか?治安どころでなく、そもそも食料や水すら確保できない。
社会は必要から生まれ、そして社会に必要なのが人間となった。
要するに我々は社会システムの存続と維持のために生かされている。

こうした社会システムは、社会システムの存続維持のためだけに様々なシステムを生み出す。
民主主義や資本主義もそうである。
世の中で良いとされていることは、宗教や思想も含めすべて突き詰めれば「人間が集団で暮らすために我慢しなければならないこと、努力すべきこと」に尽きる。
どこからどこまでが犯罪の枠なのか?どこからどこまでが国民なのか?どこからどこまでが個人の所有物なのか?どこからどこまでが・・・
資本主義経済は社会システムと相性が良い。
なぜなら資本主義経済は貪欲な人間の欲を燃料に勝手に回りだすからだ。
「勉強を頑張って良い大学に入って一流企業に入社しよう」
このスローガンは善とされている。この善は人々の行動が社会の用意した善に収斂していけば、社会はより安全に管理できるからだ。
故に善はすべてピラミッド型となる。階層が生まれる。格差が生まれる。
そこから弾かれたものは、結局は『自己責任』として処理され、そこに甘んじることも善とされる。

ここでおかしいと気づかなければ、あなたは社会システムにおける教育によって思考停止させられている。
そもそもこれは本当に善なのだろうか?
金持ちになって良い暮らしをすることは善なのか?
良い大学に入るのは善なのか?
興味のない勉学に勤しむことは善なのか?
善ではない。それは個人が決めることである。
なぜかといえば、誰もこれが善だと決めたわけではないからだ。
これは善ではなく、「有用」なだけだ。
突き詰めれば、犯罪行為も善になる。戦争中に敵兵を100人殺せば英雄だ。平時に2人殺せば死刑らしい。善とは?社会システムが決めているだけに過ぎない。

そしてそれは、社会システムが勝手に決めた枠に入らない「自己責任」な敗者たちをも弾き出している。
考えてみてほしい。
人間は自由だなどと学校では習うし、差別はいけない、みんな平等と叩き込まれるが、では先天的に足が速い人間が運動会で持て囃されるのはなぜだろうか?
足が速いことは概ね努力では覆せない。生まれつき運動神経の良い人はいるし、運動は苦手でもあやとりがうまい少年もいる。だが、あやとりよりも足が速い方がより善とされてはいないだろうか?
マイナースポーツで全国制覇と甲子園優勝は同じだろうか?
社会システムが決めた善への収斂は、様々な要因が複雑に絡んでその価値が決まっている。
甲子園優勝がよりすごい善とされているのは、社会的な注目度=金、競技人口=金、スポンサー会社の多さ=金、要するに金だからである。
善への収斂は競争原理であり、そこに多種多様な人間を走らせておけば社会は安泰なのだ。
多種多様な人間を管理するには、自動で人々がそう思えるような幻想を作り、そこへ走らせておくことが一番コストパフォマンスが良い。
競争原理であるために、そこにはルールと枠がある。
サッカーでボールを持って走ることは合理的だが反則として処罰される。
サッカーの細かなルールは、試合をある程度の枠内に縛り付けることで統制管理し成立させている。
我々が住む社会もまさにサッカーと同じだ。
だが、そのルールと枠は生まれたときにすでに決めつけられている。
生まれた時代のルールと枠の中での競争にいきなり参加させられるのだ。
学校はそのルールと枠をより強制し多種多様な人間を矯正啓蒙する。
社会はより複雑なルールと枠を自由経済と呼び、自己責任の名の下、多種多様であった人間を評価管理している。

発達障害者とネグレクトを受けた子供たちが、なぜ社会に適応できないのか?
これがまさに原因だ。
発達障害者が障害とされているのは、その個性が現代のこのルールと枠に適応が難しいからだ。※現代はより複雑怪奇になっている
時代が違えば、障害とはされなかった、もしくは気付かれもしなかったであろう。
ネグレクトを受けた子供たちは、現代の社会の必須予習項目である愛着形成が果たせなかった人々だ。
家庭環境のために、(社会が要請する)必要な教育や愛着形成が享受できなかったばかりに、トラウマや劣等感に苛まれ、学業や集団生活に着いていけない、正常な人間関係が形成できない、悪の道へ引き込まれやすいといった特徴をもたらされている。
発達障害者もネグレクトを受けた子供も、現代社会の用意しているルールと枠からスタート地点ですでに出遅れている、もしくは重大なハンディキャップを受けているのだ。
それが一斉スタートで、社会が要請する普通の社会人にならなければならない。
そこでの不平等は「自己責任」とされ、人間性を批判され、劣等意識に苛まれ、アイデンティティを喪失し、精神を病んだり犯罪に走ってしまう。
この出来レースの成立のために、彼ら彼女らは排除されているのだ。
なぜなら競争原理は一等賞とビリを決めなければ成立しない。
より上を目指すためには、より下が存在しなければならず、上に憧れ、下を見下さなければインセンティブは得られない。

この出来レースから弾かれたもののある行先を描いたのが、映画JOKERである。
主人公アーサー・フレックがジョーカーになったのは、この出来レースの不平等に気づいたからだ。
アーサーは親からの虐待による障害のために、社会の底辺に生き続けることを自己責任の元で受けていた。
アーサーは悪辣ないわゆる上級国民を撃ち殺し、同じ境遇の人々からの称賛、求め続けた父性との決別の果てに、ジョーカーになった。
彼はジョーカーになった瞬間、この出来レースである社会システムを真面目に享受してきた自分を殺したのである。
そもそも参加していることすら知らなかった(平等や個人主権等の教育により)出来レースに忖度することなど不要だ、ルールや枠に囚われていることなど不要だ、なぜなら社会は自分に何も与えてはくれなかったじゃないか。

善への収斂=競争原理は、根底から限定的で差別的なルールであるにも関わらず、教育の名の下、人々を自己責任の檻に閉じ込めていた。
だからといって、皆ジョーカーになれと言っているのではない。
皆様に感じてほしいのは、『出来レースから一歩離れる』である。
まずはもし劣等感により自己肯定ができない人は、自分が評価されないのは社会にそもそも合わないからだと思ってほしい。
そして社会は一つではない。
捉えようは無限にあるのだ。
金や他者の評価というのは、すべて社会が用意したものだ。
まずは社会の用意した自己評価をきっぱり捨て去り、自分はどんな人間なのかを捉え直してほしい。
そして現在の環境を客観視して、本当の自分が求めていることかどうかを今一度考えてほしい。
例えば、毎日の生活がストレスだが給料や社会的評価を考えると今の会社は辞められないと思っているとしよう。
そのすべては社会があなたをそこに押し付けているだけだ。
教育により、与えられた環境で努力するように仕向けられている事を忘れてはいけない。
自分を評価できるのは自分だけだ。
重要なのは、社会の用意した競争原理に自分が洗脳されているということである。

そしてもう一つ重要なのは、ライフハック化である。
まず社会の特性を見極めて、ひとつひとつライフハック化していく。
学校では真面目に生きろと叩き込まれるが、そうではなくすべてにおいて「冷静かつ客観的に」「プライドは忘れて」「実験するように観察し」「こういうものだと決めつける」「そしてすべてはくだらない」と。
ゲーム攻略のように社会と対峙する。
これはまた記事にしたいと思うが、真面目にすべてを自分と連結させて生きていると負担が強い。
もともと適応しにくい場合は、失敗がすべて自分のせいにされてしまう。
だからこそ、ひとつひとつをケーススタディーすることだ。
失敗したのは自分が悪いのではなく、ハックできていないからだと思うべきだ。
だいたい向いていないことはできるだけしないほうがよいし、他人やツールを上手く使うべきである。
その点で重要なのはコミュニケーションだが、そこもライフハックとしてもっと心理学を学んだほうが良い。
そうすれば、AIのようなコミュニケーションができる。コミュニケーションが苦手な人は、AIに学んだほうが良い(笑)
コミュニケーションは自分を殺し、会話の先にある心理を読みながら、AIのように当たり障りのないことを言えば良い。

以上、そもそも出来レースのルールが合ってないだけで、君たちは悪くない
という話
でした。
ルールに合わないのではなく、合わせてやるという感覚の方が生きやすいと思う。
いちばん重要なのは、社会の用意したルールなど糞食らえであり、だからこそうまく付き合ってやるかという感覚が必要だ。
これなら過剰な自己責任による劣等意識に苛まれることはなくなる。
いやなら逃げれば良いし、所詮ゲームなのだ。
だからこそ、あなたは自由に自分を決めて良いのだ。
いわゆる成功者や周りの社会に適応した人間、それって本当にすごいのか?
ただ何も考えず決められたことをやっているだけじゃないか。
もちろん努力は素晴らしい。
でも、それは運が良いだけなんだ。
そんなに偉いことではない。

マイケル・サンデルだってそう言っている。
マイケル・サンデルがそう言っているからそれでいいじゃないか、という感覚も必要だ。
捉え方が無限にあるから世界は無限にあるし、都合の良い用にカスタマイズして生きれば良い。
小さな反抗で社会をハックして楽しめば、ジョーカーにもならずに楽しく生きていける。


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