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ジム・ジャームッシュがわからない

パターソン」を観たのだが、相変わらずのジャームッシュ節。
何かが起こっているのだが、全体的に俯瞰してみると何も起こっていない。
我らが押井守の「ビューティフル・ドリーマー」的な終わらない日常、そのもっとおしゃれなやつ。そんな映画ばかり。
通ぶるにはちょうどよい「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を半分眠りながら観たつもりになっている僕には大いに心当たりがある。

ジャームッシュ映画の特徴は、反主流派・商業映画アンチのための商業映画だ。
これは馬鹿にしているのではなく、兜町の逆張り投資家の如く非常に資本主義的な存在だろう。
反資本主義的なマーケティング、例えばブランド物やスポーツカーのように、その機能に対するコスパは最悪ではあるがそれを所有しているという使用価値により自らの階級を演出するというもの、それがジム・ジャームッシュの映画である。

ジム・ジャームッシュはそれを皮肉として利用しているのか、もしくはゴリゴリのリアリストなのかは知らない。
しかしジム・ジャームッシュ映画は映画の主流があるからこそ、その市場があるということを露骨に理解した感こそがその魅力である。
逆張りのアンチ野郎はこういうのが好きなんだろうという狙ってる感、それをわざとらしく連続投下する演出の連なりこそジム・ジャームッシュ映画の特色だ。
コーヒー&シガレッツ」はまさにこの皮肉をメタパロディにした会話で構成されている。
なんとなくお洒落だが寄り付きにくいバーみたいな感じだろう。業界人っぽく振る舞うために、高いくせにまずい酒やコーヒーを「やっぱりこうでなきゃ」と啜るという行為、それは社会にとってどうしても必要なのだ。

ジム・ジャームッシュはその皮肉を皮肉として、そして皮肉だからこそ映画にしている。
このメタのメタのメタの・・・という入れ子状のパターナリズムこそがジム・ジャームッシュ映画の本質である。
パターソンの夫婦のだんだん壊れていきそうなのに結局は同じ日常を繰り返すという西洋人が好きそうな仏教的感覚、特にあのイカれた妻の描写はそういったポジション取りとしての消費行動への当てつけにほかならない。
パターソンの主人公は周遊バスの運転手であり、そのメタな配置としての一週間の変わらない出来事、そこには日々変わらない慎ましい生活と若干の狂気を匂わせるが何もしない妻や隣人、そして結局何も起こらない。
夢の中の住人のような変な日本人(永瀬正敏)、米国の金持ちが好きそうな日本人像はまさにチャップリンのような大げさな動きとしての静物だ。
この構造を皮肉と見るか、炎上マーケティング一歩手前と見るか、ジム・ジャームッシュの趣味と見るか、それともそれを観ている自分へのアンチテーゼなのか?

ひとつ重要な人生のライフハック、ストレンジャー・ザン・パラダイスを観て正直寝ちゃったよ!という奴は信頼できる。



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