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ライトノベルの最高速度

実は正確な定義がないらしいライトノベルというジャンルについて、大塚英志が「多重人格探偵サイコ2」(角川スニーカー文庫)の小説のあとがきに、ものすごくしっくりくる文章を書いていたので、備忘録的に載せる。

これは消費される小説だ。
小説がまるでキャラクター商品のように、眩暈がするような速度で屑も屑でないものも等しく消費され、消えていく、そういう現場がこの小説には必要だ。
速度。
そう、重要なのは消費される小説だけか持ちうる速度だ。
屑さえも書物に仕立て上げる速度だ。
その速度に乗せなければ届かないことばというものがある。
その速度に乗せなければ届かない遠い場所に読者がいる。
彼らにことばを届けるのは消費される小説の速度が必要だ。

(大塚英志「多重人格探偵サイコ2」あとがきより。文章は一部省略しています)

本当は全文載せたいくらい良い文章だったのだけど、それをしてしまうと私がnoteを書く意味がなくなってしまうのでこれくらいにしておく。
ともかく、速度。使い捨ての軽さ。確かにそれこそが、ラノベの武器、だよなあ。と、嘆息した。

ラノベに対しての、という意味での純文学小説は、沢山の言葉を積み重ね、たたみかけるようにしてゆっくりと伝えていくスタイルのものだと思う。読ませて、考えさせる。物語から何かを受け取りたいと思う読者の前にだけ、そこに込められたメッセージが姿を見せる。想像を膨らませたり、自分で読み解くのが好きな人向きの読み物だ。
でも、そうでない人にはとっては、「よくわからない話」で終わってしまうリスクもある。あるいは、そんな悠長なことに付き合っていられないと突っぱねられてしまうかもしれない。それでは、どれだけ緻密に言葉を重ねても一方通行に終わるだけだ。

対するライトノベルは、意味もストーリーも明瞭だ。だからこそ浅いとか軽薄という扱いを受けることがあり、そういう側面も確かにある。でも、だからこそ届くことがあるし、そういう言葉でしか届かない人がいる。

何度もなんども読み返し、ずっと本棚に保管し、何年経っても共感を呼ぶような物語があるように、その時代、その年代、限定されたその一瞬でしか理解できない物語もある。
大量生産され、読み終わった直後からもう忘れ去られてしまうような軽い読み物。でも、軽さと引き換えに得た「瞬間最高速度」でちょうど胸の真ん中に刺さったら、その言葉の持つ力には、思慮に満ちた愚鈍な言葉ではもう敵わないかもしれない。

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