日本人の宗教的イディオロジーについて考えて見た
源さんの声って最強ですよね
どんべいのcmはテレビで見たいです。コンサートでたくさん物を買いました
つまり私はお源さんが大好きなのですが源さんを通してとても興味深い映画に出会いました
それは
聖⭐️お兄さん
です!!
このアニメは大まかに説明するとイエスキリストとブッタが東京の立川のアパートで共同生活をする一年に密着。1年間でイエスとブッタの生活を見学している気分になる映画です。
日本の生活がリアルに描かれているので改めて日本の街並みの魅力や客観的に見ることで感じる日本の生活の愛おしさを感じる、心が暖かくなる、そんな映画です。
しかし、この映画よくよく考えて見ると
ええええ!!!!キリスト教徒仏教的には大丈夫なの????
と思い少し宗教について考えて見ました。
キリスト教は神様は唯一神しかいないと一神教の考えの元派生した宗教です。しかしこの映画にはもう1人の神、ブッタが登場してしまっています。何よりもこの2人が会って、一緒に生活しているというこの物語。
仏教は多神教と考えられており色々な神様がいると信じているのでその点では疑問視されることがキリスト教よりも少ないかもしれないですが、キリスト教とはこのコラボをどのように捉えているのでしょうか
そもそもこのアニメの根本
「イエスとブッタが同空間に存在し、共同生活をしている」
というものは一体どのような価値観からうまれたのでしょうか。このアニメから日本人の宗教観について考えて見ました。
このアニメができた要因には日本人が無意識下において
八百万の神様の存在を信じる
という日本人の宗教的イディオロジーから来ているのではないか、と考えました。
特定の宗教を信じていない日本人は日常的に宗教崇拝を行うことはほぼないに等しいと思います。イスラム教のように毎日お祈りをしたり、キリスト教徒のように日曜日に教会に行くということはしないですね。
でも旅行に行った時や、ちょっとした時にお寺や神社に行ってお祈りをする。神様にお祈りをする、つまり、神様への崇拝を表す行為は行なっています。
加えて様々な神様が祀られている日本の神社からの影響で八百万の神様の存在容認を無意識的に行なっていると思います。
私は小さいころ、お守りが大好きで神社に行く度にお守りを購入していました。その購入したお守りをランドセルにつけ、自分のお守りコレクションを作っていました。ランドセルにいくつかの神を共同生活させていたのです。それを見たおばあちゃんが
「神様が喧嘩しちゃうからつけるのは一個にしなさい」
と一言。
この発言からも神様は唯一神でないという日本人の宗教的イディオロジーを見受けることができます。
そして私たちが違う願いにおいて異なる神社に行ってお祈りをするのも看過できない宗教的イディオロジーの慣習であると思います。
私は高校の修学旅行で太宰府天満宮へ赴きました。
「どうか!!!!成績が伸びますように!!!!!」
「どうか!!!!大学受験がうまく行きますように!!」
と願いました
そして恋愛成就のために恋愛成就で有名なお寺に行ったりしています。
つまり私は自分で神様を信じているという表明、特定の宗教を信じているという表明はしないが不特定多数の神の存在は信じている。
そして目的別に参拝する神社を選んで不特定多数の神社への信仰心を高めている。私たちは無意識下において神様の種類を選別して目的にあったお祈りをしているのです。
つまり日本は不特定多数な神の存在を信じそれが宗教観における寛容性につながっているのだと思います。
実際私はこのアニメを見たときの最初の感想は
シュールだなwwwwww
私の笑いのツボすぎる!!!!
でした
つまり私(一人の日本人)にとって見たら神様を扱っているアニメであっても言ってしまえばただのアニメの一つなのです。タブーになったりグレーゾーンとして扱われることもないと思います。面白い宗教観です。
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