自分に近づいてきてくれる人が苦手だった話

これは、すごいことに気づいた!と思ったときの話。いつ頃思ったんだかはわすれちゃったけど、めちゃくちゃハッとしたの。高校のとき、特別パッとする人間でもないのにわたしのことを一方的に好いてくれる人間がいて。うれしいなあって思って仲良くしてたんだけど、知っていくと、わたしがあまり好きじゃない部分をみんな共通して持ってるなあ、って気づいてしまった。(いや、失礼すぎんか?わたし。)

なんでかなあ?とおもった。その人たちのことを嫌いなわけでは決してない。ただ苦手な部分をみんな持ってただけ。もやもやしてるまま接するのもいやだなあと思ってて。そうして、気づいたの。ずっとわたしは「じぶんだったら仲良くなりたい人」を演じてきていたからだ、と。ここから「じぶん」というのはは “内側のじぶん” のことで、「自分」というのは ”外側の自分” のことね。自分は、他人に対していつもじぶんが一番してほしい行動をとる人だった、と気付いた。なにも演じず内側のじぶんでいたら、他人の中に、悲しいなあ、とか嫌だなあ、って思うようなことを見つけたときに、わかるよ〜っていうことをしていたわけ。そうやって、あまり人と仲良くするのが苦手なわたしはひとりひとり、恩を一方的に売っていたのかもしれない。(今思うと死ぬほど迷惑なやつだよね) 今になって、そのとき自分に寄ってきてくれる人があまり得意じゃない理由がわかった。同じ種類のじぶんを持った人だったんだ。じぶんが弱いと思っていてそこを見せちゃだめだなあと思っているから、自分はそんなことしないで生きていたんだけど、自分は勝手に他人の中にじぶんを見てお節介をしていた。そのお節介を愛と受け取る似た人間だけ、寄ってくるから、どうしても同じ弱さを持った他人が目の前に現れて、謎の同族嫌悪にいつも追われてたんだ〜という話。

そこから、そのお節介の押し売りをやめようと頑張ってる。自分の中のいい人は「じぶんにとっていい人」なだけの独りよがりなものだと気づいたから。自分がほしいものと他人がほしいものを混同してはいけないし、自分がほしいものや助けてほしいことはちゃんとじぶんで言う責任を持たなきゃいけない。肩代わりし続ける人生は、ただの依存関係しか生まない。強さはその責任を自分で負うことで、それはすなわち他人への優しさにつながる。もちろん、その責任を負うことができない人はそれなりの過去があってその行動をするに至ったのだとおもうけれど、ね。だから、わたしだけへの備忘録。勝手に全世界に日記を公開(笑)ダサい姿はあえて出していく。クサイな〜と思うようなあのLove yourself/自分を愛して、って言葉は、きっとこういう自分の中の弱さへの肯定、って意味だったんだね。


この話は、あ、じぶんのそういうところが嫌いだったから他人のそういうところが許せなかったんだ!っていうよくある帰結に落ち着いたんだけど。その間を自分の経験で埋められたことに快感を得た、ということでした。腑に落ちるとはまさにこのこと。ちゃんと理解するのは気持ちがいいし、よく分からない仮面を剥がして生きられるようになるので、そこをちくちく縫うのはたのしいです。自分にしかできないし。ということで、仮面を被れば被るほどじぶんの嫌いなじぶんと同じタイプの人間が目の前に現れるというお話でした、ちゃんちゃん。


こわいけど、ゆっくり仮面を取っていきたい、なあ。

どうも〜