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LOVING DEAD(短編小説)

世界中にゾンビが溢れた。
ホラー映画やアクションゲームとは違い、現実のゾンビは人を襲わなかった。
ゾンビになった元人間たちの「死後」の幸福を実現する仕事に就いた「俺」は、消えない罪悪感を抱えて生きている。
ゾンビになってしまった母とともに……。

Twitterで連載した、怖くない、切ないゾンビ小説です。ちょっとだけ残酷な表現があります。
(9344文字)

「こちら温めますか」という問いにぼんやり「お願いします」と返し、しかし一向に動き出そうとしない店員に目をやって、そう言えばこの子も随分前からゾンビになってしまってたんだっけと気づく。可愛い子だったのに、今はよく口にしていた言葉を繰り返し、視点の合わない眼球をぐるぐるさせるだけだ。
 仕方ないので、無駄に力強いその手から弁当をもぎ取り、金だけ払って外へ出る。日差しは眩しいが、雪がちらちら舞っている。そこここに転がったままの人の姿があり、俺はそれらをスケート選手のように避けて、滑り歩く。
 みんなゾンビだ。関節の動きが悪くなっていて、氷でコケてそのままなのだ。ゾンビだから感覚はないだろう。でも姿は人間のままだから、顔を氷にくっつけているのはなんだか物悲しい。このゾンビの家族は、このゾンビがここでこうしていることを知っているのだろうか。
 きっと知らないのだ、知っていたら放置はしない。もしくは、その家族らもゾンビになってしまったか。
 ゾンビは悲しい。
 魂は死んでいるのに、肉体だけが惰性で生きている。寄生虫に操られて自我を失くしたカタツムリみたいなものだ。ただ、彼らを操る寄生虫は存在しない。ゾンビはただゾンビとして動いている。生きているのではなく。ただ死んでいないだけの存在として。
 いつのまにかこの町にも随分とゾンビが増えた。どんな理由で死んだとしても、なぜだかその死体はなかなか腐らず、よく動く。理由を解明しようとして彼らを解剖した専門家たちも皆ゾンビになり、恐らくこれは一種の感染症なのだろうというところで落ち着いた。生前より丈夫で、不思議に燃えない死体。
 車通りの絶えた大きな車道を悠々と歩き、自宅に帰る。冷たい弁当を口に放り込む。それから仕事道具をまとめてリュックのように背負い、台所を覗いた。
「母さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
 もう永遠に歳を取らなくなった母さんは、生前、よく口にしていた言葉で俺を見送る。
 人を襲わないゾンビ。
 ホラー映画やアクションゲームですっかり「人を襲うゾンビ」という概念と仲良しになっていた俺たちは、そんなものが存在し得るなんてと驚愕した。現実のゾンビたちは、映画やゲームよりもっとずっと大人しくて穏やかで、そしてどうしようもなく悲しかった。人を襲わない、生きていない、けれど生前の動きを憶えている、人間の形をしたもの。彼らがいつになったら腐敗し、動きを止めるのか、今のところ誰にもわからない。
 ゾンビの人権が取り沙汰されるより早く、企業はそれらを、人件費のかからない戦力と判断した。可愛いかった、コンビニ店員。ゾンビの家族たちは、ただ無意味に動かれるより、それが例えタダ働きであっても、生前と同じように働いているゾンビを見ている方が慰められたらしい。家族の承諾さえ得られれば、企業はゾンビを働かせ放題だ。だから街には生きている人間と同じくらいのゾンビがいて、虚な眼差しで労働している。
 そうは言っても、家族を死んだ後まで働かせるなんてと思う人間もたくさんいる。そういう人たちはだいたい、しばらくの間、ゾンビと共に暮らす。だが、そんな不自然なことが長く続けられるはずもない。
 死体は死体なのだ。例え生きているように動いているとしても。生きているように感じられたとしても。
 生きて歩いている人間と、死んで動いているゾンビと、氷の上に転がっているゾンビとの間を渡り歩き、俺は職場にたどり着く。かつては遊園地だったというだだっ広い敷地に、安っぽいが一応は機能する、何軒ものモデルハウス。そのひとつひとつに、俺の上司が預かったゾンビたちが住んでいる。
 上司は不在のようだった。事務所で昨晩までの記録を確認してから、俺はでかいクローゼットの中に半身を入れて、目当ての品を引っ張り出す。
 薄汚れた青緑のツナギ。もう自分の皮のような気さえするそれに着替えて、鏡に向かって軽く髪を整える。今から向かうモデルハウスに住むゾンビの、息子に扮する。
 モデルハウスとは言うが、要は人が三人ほど入れるスペースが、部屋を模して作られているだけだ。各ゾンビが生前暮らしていた部屋と、そっくりに誂えてある。俺は茶色いハウスに入って、安楽椅子に座っていた爺さんゾンビに手を上げて挨拶した。爺さんゾンビは、歯の抜けた口内を見せて『笑った』。
 爺さんゾンビは寿命で亡くなった。少なくとも、長生きしてから亡くなった。長いこと音信不通だった息子は爺さんがゾンビになってしまってから帰ってきて、その体にすがりつき、どうしようもなくて、ここを頼った。いつまで続くのかわからない死後の、その幸福を、少しでも味わわせてやりたい、と。
 俺の仕事は、ゾンビの暮らしを少しでも幸福にしてやることだ。生前暮らしていたのと似た部屋で、生前愛していた人の訪問を待ちながら、『余生』を過ごす彼ら。俺は爺さんゾンビの息子になりきって、その歓待の言葉を聞く。
「遠いのに、ご苦労さん」
 しわがれ、聞きづらい、けれども確かに発される言葉。
 俺はモデルハウスのゾンビたち全員の待ち人だ。子供、甥姪、兄弟姉妹、もしくは母や父、何にでもなる。ゾンビたちにとって、俺が本物に見えるかどうかは関係ない。ただその燃え滓で動く脳が、薄ぼんやりとでも、俺を知っている人間だと認識しさえすればいい。
 終日、俺は簡単な扮装で敷地を巡る。
「ワタシらは、終わりの見えないままごとを仕事にしてる」
 煙草の煙の奥から、上司がいつか吐き出した言葉。あまりに言い得て妙な言葉。この新規事業は、果たして来年まで保つものなのか。いいペースで顧客は増えているし、ゾンビは食費も電気代も要らない。そしてこの仕事は、誰も不幸にしていない。
 そう思っていた。彼女に会うまでは。


 節約のため凍てつくモデルハウスから歯をガチガチ言わせながら出てきたところで、俺は彼女と鉢合わせした。生きた人間である彼女は、濃いアイシャドウの下から俺を睨むように見ていた。
「お婆ちゃんを解放してあげて」
 事務所に通すと、彼女は椅子にふんぞり返った。
「お婆ちゃんは立派な人だった。こんな所に閉じ込められていい人じゃない」
 俺はともかくも温かい飲み物を作ろうとして、やかんを火にかけた。コンロの火力を調節しながら、「こんな所」という言葉を噛み締めた。
 彼女はキッチンに引っ込んだ俺に聞こえるように、声を張り上げた。
「この罰当たり」
 来客用カップにインスタントコーヒーを入れ、自分用には砂糖多めの紅茶が入ったマグカップを持って、俺は彼女の前に戻った。ハタチそこそこだろう彼女は、金に染めたボブを揺らしながら、カップをさっさと空にした。
「俺たちは、お婆ちゃんを閉じ込めている訳じゃないんだよ」
「パパが頼んだんでしょ」
 彼女が名乗った名前は確かに、彼女の言う「お婆ちゃん」の引受書にあった。それを確認しながら、俺は慎重に言葉を選ぶ。
「お父さんは、君がここにいることをご存知なの」
「知らない。言ってないもん」
 タイトなミニスカートの裾から突き出た編タイツの脚を、彼女はさっと組んだ。蹴られるかと思った。説明してもわかってもらえる自信がなかったので、俺はため息を我慢して、外へ続くドアを再び開いた。
「ついて来て」
「何よ、お婆ちゃんを解放するまで出て行かないんだからね」
「別に追い出そうってんじゃない」
 宥めながら外へ出て、元遊園地の元観覧車辺り、ピンクのモデルハウスを目指して歩き出す。
 歩いている最中、彼女はずっと喋っていた。お婆ちゃんは死ぬ直前まで教師を務めていて、教え子全員に慕われていて、自分には特別甘くて優しくて、自分が訪ねるといつも特別な挨拶をしてくれた、そんなお婆ちゃんをこんな所に閉じ込めるなんて。
 俺は彼女に、ピンクのモデルハウスのドアノブを捻らせた。
「お婆ちゃん!」
 彼女は、部屋の隅に蹲るように座っていた小柄なお婆ちゃんに駆け寄った。お婆ちゃんは白濁した目玉を音の聞こえる方へ向け、彼女の細い手を弱々しく握り、「私の大好きな子が来てくれたねえ」と言った。
 彼女はどうだと言わんばかりにこちらを向く。俺は頷いて、戻るように手招きした。彼女と入れ替わるように、俺はお婆ちゃんに近づいた。お婆ちゃんは俺をじっと見つめて腕を握り、「私の大好きな子が来てくれたねえ」と言った。
「なんで」
 振り向くと、彼女はたださえ大きな目を見開いて仁王立ちしていた。
「それは、私のためだけの言葉なのに」
「これがゾンビというものなんだ」
 事務所に戻りがてら、俺は他のハウスも彼女に見せて回った。どのハウスのゾンビも俺を歓待し、愛する家族に対するのと同じように振る舞った。彼女は困惑しきり、事務所に戻っても黙ったままだった。
 上司はまだ戻って来ない。来客を残して帰る訳にもいかず、俺はひとり、何度も時計に目をやった。
「やっぱり、こんなのおかしい」
 一時間ほど経った頃、突然呟き、彼女は立ち上がった。
「お婆ちゃんに変なことしてないか、また見に来るから」
「また?」
 声が裏返る。
「変なことなんて」
「それを確認するって言ってるの」
 きつい声だけ残して、彼女は去った。ドアの隙間から、冷風が吹き込んできた。
 それからというもの、毎日のように彼女はやって来た。俺の後についてモデルハウスのゾンビたちの様子を眺め、お婆ちゃんとふれあい、俺が食べるつもりで作ったサンドイッチを毎回半分食べてしまった。食べながら毒にも薬にもならない会話をして、午後の仕事も眺めて、日が暮れる頃に帰ってしまう。
「お婆ちゃんは死んだのに、なんでまだ動かなきゃならないんだろう」
 お婆ちゃんが、生前好きだった行動を律儀に取り続ける様を見つめながら、彼女は言った。
「ゾンビはそういうもんなんだ」
「そういうもんって何? 魂がなくなった体なんて意味がない。お婆ちゃんの魂は、とっくにここにないじゃない」
 そうだ、ゾンビには魂がない。
 魂がないから相手構わず愛情表現をするし、ところ構わず生前と同じ行動をとる。だからそこらにいるゾンビたちは絶えず怪我をし続けて、修復し得ない新しい傷で覆われていく。俺たちは、そういう予期せぬ怪我からも、預かったゾンビを守っているのだ。
「魂がないお婆ちゃんなんて」
 彼女は最近、お婆ちゃんに会おうとしない。代わりに、俺といるときに、よく笑うようになった。
「アンタの上司はいけすかないけど、アンタはいい人だね」
「そりゃどうも」
 俺も笑うことが増えた。くだらない冗談なんて、母さんが死んでから思いつきもしなかったのに。
 家では母さんとふたりきり、職場には滅多に生きた人間など来ない。そんな中で多くのゾンビと関わって、という日々が続いていたから、コロコロと表情の変わる可愛い女の子と話せるのは、いつのまにか日々の楽しみになっていたらしい。
 彼女が来る時間が近づくと、ソワソワする自分に気がついてしまった。
 その日は朝から吹雪で、職場の敷地内の積雪も凄かった。俺は朝の業務を終えて紅茶休憩をとっていた。そろそろ彼女が来る頃だと思ったが、なかなか来ない。雪で遅れているのかもと思い直した昼過ぎに、ようやく顔を出した。
「アンタの母さんもゾンビなんだっけ」
 ひどく疲れた様子の彼女は、そう尋ねた。
 俺が小学生のとき両親は離婚した。母さんはひとりで俺を育てて高校まで卒業させてくれた。社会に出た俺の面倒を見てくれた会社の社長さんがいい人で、母さんに早く楽をさせてやれと、多くの仕事を任せてくれるようになった。出世とまではいかずとも多忙の身となった俺は、なかなか実家に帰れなかった。盆と正月には必ず帰ったが、家にひとりで付き合いもない母さんと顔を突き合わせるのが、だんだん息苦しくなっていった。
 よく笑う人だった。俺のことを一番に思ってくれる人だった。
 なのに俺は、母さんのことを思い出すことが少なくなっていった。母さんの笑顔を引き出すこともできなくなっていった。
 病院から連絡をもらって駆けつけたときには、もう遅かった。俺のよく知る母さんはもういなかった。けれど、ベッドにはまだ動く、まだ笑う、母さんがいた。
「ねえ」
 彼女の声でハッとする。
 見ると、額に汗を浮かべた彼女が、俺に手を差し出していた。思わず握り返して、ようやく気がつく。彼女の服の赤い模様は、服の柄ではなかった。
「魂がないまま動き続けるゾンビは可哀想だよ。もう本当にお別れしよう。そして、生きてる人間同士で新しい生活をしよう」
 世界中にゾンビが溢れている理由は、企業が無賃金労働者を確保したいからでも、ゾンビたちがほぼ腐らず燃えもしないからでもない。
 殆ど生前と同じ見た目で動いて話す人間の形をしたものを本当に塵に還すような行為をする勇気が、多くの人には備わっていないからだ。
 ピンクのモデルハウスへ足を運んだ。頼んでおいた除雪も遅れているようで、彼女の足跡を辿るようにして進んだ。
 部屋の中は鉄臭かった。見るまでもないと直感が告げたが、確認しない訳にはいかない。俺の網膜はそれを映して、俺の胃は痙攣して、俺の背はのけぞって、俺の体は逃げ出して、そして吐いた。
 ゾンビは冷たい。生きていないから当然だ。人間は温かい。生きているから当然だ。事務所の前で震えながら俺を待っていた彼女の体は冷え切っていたが、それでも温かった。生きているから。
 さっき反射的にしか握り返せなかった手を、今度はしっかりと握って、彼女の目を見た。
「一緒に生きよう」


 死の定義は諸説あるが、ゾンビが「生きていない」とみなされるのは単純な理由による。心肺機能が完全に停止しているのだ。そうなると理論的には脳も生きていない筈だが、ゾンビには生前の記憶が微かにあり、その証拠に「その人らしい」言葉を発する。しかし見た目は徐々に崩れていき、動きも鈍い。
 俺の母さんのように病院で息を引き取った場合は、医者が死亡の確認をする。その後ゾンビになるかどうかは今のところ運によるようだ。
 つまり、母さんは確かに一度死んでいる。俺をこの世に産み落とした母さんは、もう死んでいる。
「おかえり。今日もよく頑張ったね」
 もう死んでいる筈の母さんが微笑む。


「仕事内容を理解して応募したのか?」
 まだモデルハウスがふたつしかなかった元遊園地の入口で、俺は上司になる人間から煙草の煙を吹きかけられた。温かい風が吹いていた頃のことだ。
 俺が頷くと、面接は終了した。母さんのいる家から歩いて通える、特別な技能は不要な職場。仕事内容は二の次だった。
 毎朝、母さんに「行ってきます」を言った。毎晩、母さんに「ただいま」を言った。何年もの間しなかったことを、罪滅ぼしのように。母さんは必ず「行ってらっしゃい」「おかえり」と返してくれた。
 そして今日も、雪に濡れて帰宅した俺を、いつも通り迎えてくれた。俺は目を伏せる。
「……ただいま」
 俺はタンスの奥から引っ張り出して来た母さんの古いスキーウェアを彼女に貸して、自分もスキーウェアに着替えた。寒さとはもう無関係の母さんを脇から挟むようにして、俺たちは長い道程を歩き出した。
「アンタの母さん、小さいね」
 彼女の言葉に「君のお婆ちゃんもね」と返そうとして喉が詰まった。彼女のお婆ちゃんはもういない。雪礫が顔に当たって、耳がじんじんする。
「君がいなくなったら、君の家族はびっくりするね」
「しないよ。ウチはもうとっくに崩壊してるもん」
 彼女はあっけらかんと言う。
「ウチはお婆ちゃんを中心に回ってたんだ。でもお婆ちゃんが死んで」
『死んで』の部分に、ぐっと力がこもった。
「パパはおかしくなっちゃった。お婆ちゃんはまだ死んでないんだって言って、私たちには決して会わせようとしなかった。だから、お婆ちゃんがあんな風になってるって私は知らなかった」
 アンタの職場のことも最初は介護老人ホームだと思ってたもん、と彼女は雪山を蹴り上げた。
「ママはパパのことを見捨てたけど私は見捨てられなかった。どうしたらいいのか分からなくて、とりあえずお婆ちゃんに会って、もしお婆ちゃんがパパの言うようにしっかりしているのなら戻って来てもらおうって」
 今日ので、もうどうしようもなくなっちゃったけど、と彼女は笑う。
「でもいいんだ。アンタと一緒に新しい場所で生きていけるから」
「君は強いな。……俺は……」
 ほとんど人のいない開けた道は、ただひたすらに白く目を刺す。明るすぎて、先に何があるか分からない道。母さんがよろける。
 待ちはずれの山道も雪深く、俺と彼女は母さんの体を押すようにして進んだ。かろうじて直近の除雪跡が微かな道になっていて、俺たちは無言で歩いた。
 降っていた雪はやみつつある。目当ての崖までは、あと少しだ。ひと足ごとに、ピンクのモデルハウスが浮かぶ。コマ撮りのように思い出される、あの惨状。
「……大丈夫?」
 彼女が、俺の顔をじっと見ていた。
「大丈夫ではないかな」
 俺は彼女のように強くない。強くないから、もう抜け殻と言っていい筈の母さんと、ずるずると同居した。自分の愚かさが少しでも薄れるような気がして、毎日話しかけた。
 そんな人間に、リュックの中の物を使える筈がなかった。
 目的地に着いてしまった。決心なんてついてはいない。けれど、やらなければいけない。俺たちが過去のくびきを逃れて新しい日々に進むために、必要なことなのだ。
 寒さのためだけではなく、全身が震えた。
 苦労してリュックのジッパーを開け、中から簡単な組立式ツルハシを取り出した。手が震え、組み立てに時間がかかった。少し前から晴れ間がのぞき、母さんが、舞台女優のように照らし出されている。
 ここは隣県との境道で、山際から少しはみ出るように、見晴らしのよい崖がある。木製の手すりにもたれた母さんと、それに向き合う俺たちは、山の斜面と崖との、狭い箇所に立っている。
「私がやるよ」
 彼女は素早く、俺の手からツルハシを取り上げた。
「アンタは覚悟だけしてくれればいい」
「で、でも」
「任せて」
 彼女は身振りで俺を遠ざけた。
 俺は情けなくも、その厚情に甘えることにした、せざるを得なかった。
 無理なのだ。
 俺は、彼女と母さんの両方を視界に入れられる所まで下がった。
 ゾンビは丈夫だ。それは、ピンクのモデルハウスの室内を見たなら誰でもいやでも実感することだ。そんなゾンビを完全に塵に還そうと考えれば、弔いの儀を家で行うわけにはいかない。ツルハシでできるだけのことをしてから、崖下へ落とす。それが、俺たちにも母さんにも、最も簡便な方法だと思われた。
 太陽の光が、雪で覆われた山の斜面に反射する。彼女が振り上げたツルハシの切先に、その光が移る。
 ああ。
「母さん」と呼びかけそうになったそのとき、足元がふらついた。現在の状況に、精神が参ってしまったのか……と思ったが、違う。視界に映る彼女と母さんも、同じようにふらついている。
「地震だ」
 俺の小さな声は、彼女にも母さんにも届かなかっただろう。
 一瞬の強い揺れがきて、山の斜面に積もっていた雪が、彼女の上に降りかかった。彼女は刹那、宙空を見上げ、口を開いた。「お」の形に開いた。そしてそのまま、大量の雪の下に消えた。
 雪崩だった。規模は小さいかもしれないが、人ひとりを飲み込むには十分な量の雪が瞬間で落ちてきた。雪はそのままの勢いで崖の下へ滑り落ちていった。俺はすぐに駆けつけたが、彼女がいた所にはもう、誰の姿もなかった。大量に崖下へ流れ落ちた雪の名残だけでも、俺の背丈ほどは積もっていた。
 考えなしに突っ込んだ手は千切れるように痛み、彼女がその下にいたとしても為す術がないことが分かった。頭で考えたことに体の実感が遅れてついてきた。
 何も考えたくなかった。
 その場にくずおれた俺の耳は、足音を捉えた。ぼんやり見上げる。
 母さんが近づいて来たのだった。どうやら地震のお陰で立ち位置がずれて、雪崩には巻き込まれなかったらしい。
「母さ……母さん……」
 母さんの、もう半年以上替えていない上着の裾にすがりついた。雪崩がなければ既にこの世にはない、その足元に蹲った。
 唇が震える。涙が凍ってゆく。
 母さんが、ぎこちない動作で俺の手を取った。冷え切った、がさついた、こわばった、つっぱった皮膚が、俺の手に擦れる。
 撫でられているのだ、と気がついた。遠い昔、俺がまだ泣き虫だったころ、母さんはこうして手を撫でてくれた。そして必ず。
「痛いね、痛かったね」
 そう。こう言ってくれたのだ。
 痛かった。ずっとずっと、痛かった。
 忙しさを理由に大切な筈の母さんから遠ざかったことも、母さんがゾンビになってしまったことも、決して取り返しのつかないことを取り返そうとしていたことも、母さんはもういないのだと思い込んで別れを告げようとしていたことも、今、共に歩き出そうとしていた人を失ったことも。
 痛い。痛いよ、母さん。


 雪解けの時期が、もうすぐやって来る。初めてゾンビが確認されてから一年が経とうとしている。世間はとうにこの事態に慣れ、俺の上司はますます儲かり、街は死者で溢れて、次第に窮屈になってきた。
「そろそろ公的機関から、対ゾンビ待遇のノウハウ協力要請が来るだろうな」
 上司がニヤッと笑う。
 俺は相変わらず、色とりどりのモデルハウスを訪ね歩く毎日を送っている。子供、甥姪、兄弟姉妹、もしくは母や父、何にでもなって、ゾンビたちを幸福にする。仕事の合間に、ふと、彼女の声が聞こえる気がすることがある。俺の後をついて回っていた彼女は、彼女のお婆ちゃん同様、もうどこにもいない。
 あの日、俺は母さんを家に連れ帰って、上司に連絡をとった。
「ピンクのモデルハウスのゾンビの家族が、ピンクのモデルハウスのゾンビを葬りました。俺が事務所で雪が止むのを待っている間にやったみたいです」
「それで、そいつは?」
「行方不明です」
 嘘はついていない。真実を話してもいないけれど。
 母さんが俺の手を撫でてくれたあの瞬間、俺は理解した。人間は魂だけでできているのではない。例え魂がそこになくても、その人が生きて経験してきた全てを、体は記憶している。その記憶を本人が意識できないとしても。
 完全ではないかもしれない。しかしそれでも、ゾンビはやはり、人間なのだ。
 俺は『人間』を幸福にする仕事をこれからも続けるだろう。この地球に蔓延した異常事態が終了する、そのときまで。ひょっとするとそうなる前に、自分も幸福にされる側に回るのかもしれない。
 でも、それもいいじゃないか。
 母さんと共に暮らし、雪に飲まれた彼女を愛した記憶を抱いて、俺の体が動くのだ。
 道路の氷も溶けて、転んだままのゾンビは少ない。俺は生者と死者との間を歩く。可愛いかったコンビニ店員からもぎ取った弁当を提げ、家へ帰る。
 玄関のドアを開けると居間から母さんが顔を覗かせる。だいぶ崩れた顔で、にこっと笑う。
「おかえり。今日もよく頑張ったね」
 俺は笑って答える。
「ただいま、母さん」

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