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猫の目の向こうの、幼い頃の記憶

東からの柔らかな太陽が心地よいある日、外で猫をなでていたら鳥の鳴き声が耳に入ってきた。

「ピロピロピーピーピッピピピ」
クロウタドリの雄は自分のメロディーを持っている。
「ピロピロピーピーピッピピピ」
私も口笛で同じメロディーを吹いてみた。
「ピロピロピーピーピッピピピ」
クロウタドリが歌う。
「ピロピロピーピーピッピピピ」
私は口笛で返す。

すると突然、気持ちよさそうに寝転んでいたはずの猫がすっくと立ち上がっていた。
「にゃっ」
と一言。怒った?
それから真ん丸にした目をこちらに向けて、砂だらけの背中を舐めることなく木の陰に隠れてしまった。
「どうしたの?おいでー」
呼んでも戻ってこない。

普段は何しても怒ることのない人(猫)が怒ると、迫力がすごい。
しかも理由がいまいちよく分からない。口笛のせいだろうか。

仮説を立ててみた。

① クロウタドリはうちの猫と敵対関係にあり、その歌真似をするなんて言語道断。

② 猫は鳥語が分かって、実はクロウタドリは酷いことを歌っている。例: 「あんたのお尻は臭い臭~い」。

検証は不可能。

6月の長い昼間が去った頃、猫がようやく帰ってきた。尻尾をピンと立てて、居間に入って、いつものようにテーブルの周りを一周。なでてあげるとゴロゴロした。
根に持たないのが本当にいいところ。よかった。

朝のあれは何だったのだろう。やっぱり気になる。あんなの初めてのリアクションだったから。
「今朝はどうして怒ったの?」
聞いてみても返事はない。まあ、そんなものだよな。
「ぴー」
と、試しに口笛を吹いてみる。
するとゴロゴロはピタッと止まって、朝と同じ真ん丸の目がこっちを見ていた。

「ごめんごめん、もうしないよ」
まだ見ている。
「ごめんごめん~、もうしないよ~」
仕方ないので同じセリフを歌にした。
ゴロゴロが再び始まった。
うちの猫は歌が好きである。
よかった。


さて。
猫の真ん丸の目の向こうにあったのは、怒りではなかったと思う。むしろ絶望とかショックとか、そういう類い。
開いた瞳孔の向こう側に足がすくむほどの空虚が広がっていて、そこに押さえようのない感情の束があった。

「なんか、これ、わたしもしってる」
突然そう思った。
それはずっと忘れていた、幼い頃の記憶。


「おかえり」
その日、家に帰ってきた私に宛てた母の言葉はいつも通りだった。それでも何かがいつもと違うのが、漂ってくる空気で分かった。

父も帰ってきていて、両親は居間に座っていた。普通の顔をして。
普通だから普通の顔なのではなくて、本当は全然普通じゃない中身を普通で覆おうとしている顔。
(「覆おう」はひらがなで書くと「おおおう」で、とても変。)

子供の頃は、幼ければ幼いほど、毎日の小さいことが一つ一つ密接に大人とつながっている。だから大人のちょっとした揺らぎは直に子供に伝わってくるし、子供はそういうのに乗っかるようにして生活するより他ない。
それはとても大義なこと。

小さい頃の私は決して不幸せな日々を送っていたわけではないけれど、隠した表面の下に透ける両親の揺らぎを察知できるくらいのアンテナは常に張っていたのだと思う。

「ちょっと、こっちに来て座ってくれる?」
そう言われて私は、母と父の座るこたつの、空いている二辺の片方に腰を下ろした。

「これを見てほしいんだ」
私は慎重に、父の手元に目をやった。
「この中から1枚引いて、自分だけ見て、伏せておいて」

そこには一組のトランプが積んであった。見たことのない青い模様。真新しいのは、カードの周りが意地悪なくらいぴっちりまっすぐなところから明らかだった。

私は父の言う通り1枚選んで、数と記号を確認して、カードを伏せた。
何か重要な儀式みたいな様相だった。
父はその上に右手をかざすと、大きな秘密を明かすかのようにそっと告げた。
「ダイヤの5でしょう」
(注: 実際の数と記号は忘れてしまったので、ダイヤの5は仮。)

「なんでわかるの?」

母も同じことをして、同じように当てた。
「なんでわかるの?」
私はもう一度聞いた。
「昨日の夜寝ている時にね、急に光のようなものが降りてきてビビビってなって、力をもらったんだ。それで今まで見えなかったものが見えるようになったんだよ」
父が言った。
「そうなの。突然ね」
母が言った。
「わたしは?わたしもそのちからもらえるの?わかるようになるの?」
必死だった。
「おとうさんとおかあさん、もういままでのおとうさんとおかあさんじゃないの?」
必死であった。
「何も変わらないんだよ。ただ、この力を持ったっていうだけで」

おとうさんとおかあさんは人のかたちをしたうちゅう人になったのかもしれない、
と私は思った。

そこに兄が帰ってきた。2歳年上の、当時はずいぶん年上だった兄。
たった一人、今までと変わらない兄。私はすがるように一気にしゃべった。
「おにいちゃんも、ちからもらった?おとうさんとおかあさんはもらってわたしはもらってなくて、おとうさんとおかあさんはカードがみえてわたしだけみえないの」

「どういうこと?」

さすが年上だけあって、兄は動じない。
父がカードを当てても、母が当てても動じない。

「ふーん。
… あ、俺も今分かるようになったかも」

兄も儀式のような一連の作業をして、ぴったりとトランプの数と記号を言い当ててしまった。
私を除いた3人が、お互いを見てうなずき合った。
彼らはテレパシーも使えるのかもしれない。
私には、何も見えないし何も聞こえない。

兄はあっさりとその力を得てしまった。ビビビっていう光は見えなかった。なんともあっけなく、謎の力は唯一残った兄さえも連れていってしまった。

愕然とした。猫の目の向こうに見たような果てしない絶望が、その時私を支配していた。

涙が流れた。
でも、泣いていてはいけない。強く在らなくてはいけない。

もう、覚悟を決めるしかないのだ。
これから、今までと同じであるかのように、今までとは全く違う日常が始まる。父と母と兄は私の家族のままだけど、実は今やもう異世界に通じる存在となった。その人たちとの新たな生活が始まるのだ。
だから、私は強く在らなくてはいけない。

その時だった。

「ええと、あのさ、これ、マジックトランプだよね?」

兄が言った。

… え?
意味が分からなかった。

「青い模様の右上が細工されてて、分かるようになってるよね?」

そう。よく見たら本当にマジックトランプだった。デジタル時計の数字のように表された数と、4種類の記号を示すパターン。
たったそれだけだった。

謎の力なんかなくて、みんな今までと同じ普通の人だった。
それを即座に読んだ兄の明晰さと、何もかも信じて疑わなかった私の単純さ。そして会心の演技で子供を片方だけ騙すことに成功した父と母。
全てが滑稽過ぎて、笑うに笑えなかった。

そうして、泣くほど惜しんだはずの今までの日常は、あっけなく戻ってきた。
うれしいはずなのに、私の心の中にはほんの少しだけ残念に思う気持ちがあった。少しだけ格好よかった特別な力。だけどそれはしまっておくことにした。口に出したら本当になるかもしれない。それはやっぱり嫌なのだった。

(冒頭は Eiko Toda さんの写真。これはクロウタドリの雌で、雄は羽がもう少し暗い色でくちばしが黄色。)

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