見出し画像

解釈のズレを理解したら、質問スキルが上がった。

目上の人への語彙が極端に少なかった過去の自分については先日書いた通りなのですが、もう一つ苦手なことがありました。
他者がプレゼンや自己紹介など、何らかのアウトプットをしてくれた時も、私は感想も質問も伝えるのが苦手でした。
せっかくなのでその話をさせてください。

感想も質問もない、若い頃

学生の頃、読書感想文がとても苦手でした。感受性のない子かも、と母が心配したほどです。あらすじ以外に書けたのはうれしいとかかなしいとかその程度でしょうか。マジで。
(今なら数千文字くらい普通に書けそうなので、もったいないことしたなーと思ってます)

社会人になってからは、質問は無いかと話を振られるのがとにかく嫌いでした。
恥ずかしくて話せないとか、こんなこと質問していいのかとか、「質問できない」もさまざまカテゴリが存在すると思いますが、私の場合は「質問は特にない」タイプでした。

覚えているのは新人の頃、外部の偉い方の公演を聞いた後、例の
「質問はないですか?」
が、名指しで飛んできました。
当然のごとく質問など特にないので、
「質問は特にありませんでしたが、私は御社の取り組みについて〇〇▲▲なら印象を持ち、※※のような課題をお持ちだと考えました」などと勝手な講釈を早口で垂れ流し、講演会場の空気が微妙になったのは覚えてます。
ここで益々、質問ありませんか怖い病が加速します。

同じことを聞いても、認識はズレる

「コップに『半分入っている』と『半分空である』とは、量的には同じである。だが、意味はまったく違う。とるべき行動も違う。世の中の認識が『半分入っている』から『半分空である』に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる」
(P・F・ドラッカー『イノベーションと起業家精神』)

ドラッカーの「コップの水理論」は有名です。
同じものを見ても、良いか悪いか、善か悪か、親しみやすいか怖いか、その人の解釈によって全く違います。
会話や、相手のアウトプットの中でもそれは同じで、同じ話に対してみんなが同じ感想を持っているはずなどなくて、必ず誰しもに解釈のズレが存在しています。

カウンセリングの勉強をしている頃
「私、来月結婚するんです」も
「来春から課長に昇進します」も
「おめでたい」とは限らない。

と、言われたことがあります。
だからこそ、カウンセリングでは相手からの事象の見え方を言語化し、カウンセラーである自分側とのズレにも気付きながら対話する必要があるんですよね。

そのズレを少しずつアジャストするために、質問したり、共感したりする。
当時勉強したさまざまなテストケースから、「認識合わせ」が私は楽しくなると同時に、考え方の違う人に質問すること、質問されることへの抵抗は無くなっていきました。

質問されるのが怖い病の頃って、話す側や他の聴衆も、自分と同じ解釈だと勝手な勘違いをしていたんですね。

ズレを知って、あなたを知りたい

そうこうしているうちに、採用面接を今では年に200本くらいやる立場になったのですが、当時鍛えた認識合わせのスキルのおかげで、楽しくなりました。

書類の内容を自分流に解釈し、マニュアル通りに聞くこと聞くだけじゃ、その人はわからないなあ、と日々感心しているところです。
なので、自分の主観を取り払って、過去の出来事を相手がどのように解釈しているか、興味を持って聞けています。

そうすると、
・月70時間もある残業時間が転職の理由だと思っていたが、実は楽しく仕事をしていた。
・休職は体調不良ではなく、会社と交渉し留学に行って、スキルアップして帰ってきた。

上記は例ですが、私がイメージした「応募者と仕事」と、応募者から見た「自分の仕事」の見え方にズレがあると気づく。ズレがさらなる興味を呼び、対話して、双方が理解し合って満足できる採用が行えるよう、日々気遣っています。


本日はこれで以上です。
余談ですが、私の好きな歌詞に

左と右の耳で 聞こえ方ちがうだろ?
ぼくらの真実なんて きっとそんなもんさ
(スガシカオ『Hop Step Dive』)

というフレーズがあります。

きっと、そんなもんだから、まだ楽しめます。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?