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選択しているのは自分自身

<みんな我慢しているから>

このご時世、よく耳にする言葉。

みんな我慢しているから、何なのでしょうか。

『みんな我慢しているからあなたも我慢しなさい?』


私はそんなことを言われても

我慢ができない人なので、

俗に言う『社会不適合者』です(笑)


今の社会で怖いなと感じるのが、

この『みんな〇〇だから』という空気感です。


みんな〇〇だとしても、

それを選んでいるのは一人一人なんですよね。


選択する権利は一人一人に平等に与えられている。

にも関わらず、

『選ぶ』ことを放棄し、

さも強制かのような空気感を作っているということに

氣付いていない大人があまりにも多いように感じます。



私は、このご時世で、

親子で集まるオフラインの子育て活動をしています。



昨年はコロナ禍ということもあり

一切集まることはできませんでした。


もし何かあったら・・

とリスクを回避するために

オンラインを積極的に活用していました。


ですが今は

こんなときだからこそ

オフラインの場づくりを積極的に行なっています。



<誰も責任は取れない>

『何かあったとき、責任を取れるの?』

責任の所在って、必要だとは思います。

ですが、

極端なことを言えば

責任なんて誰も取れないんですよね。



例えば、我が子が病気をしたとします。

そんなとき親は、ぐったりとする我が子を見て

こう思うと思います。


『代われるものなら代わってやりたい』


では、実際はどうですか?

悲しいかな、代われないですよね。


私がガンになった時も散々言われました。

『代わってやりたい』と。


そう言葉にする心境は分かります。

ですが、代われないものは代われないんです。


誰一人として、誰かになることは不可能なんです。


だから、冒頭でもあったように

『みんなが我慢しているから、あなたも我慢しなさい・・』と

もし誰かに我慢をさせたとして、

その我慢の結果、その人が病気になってしまったり

我慢をしたがために、もし自ら命を断つようなことがあったとき

誰かが責任を取れるのでしょうか?


失われた命に対して

どう責任が取れるというのでしょうか?



<命の責任者は自分自身>

我慢の末に、仮に失われる命があったとしても

その最期の選択をしたのは本人でしかありません。


ですが、

防ぐことはできたはずですよね?


水害や地震などの災害についても

『もしもの時の備え』があると思います。


では、自分の命の『備え』はできているのでしょうか?


同調圧力で『選択』を放棄する大人を見て育った子供たちが

『命の備え』を教わる場はあるのでしょうか?


自分で選択するということは

自分で自分に責任を持つということです。

自分の人生、命に対して、責任を持って行動している大人が

果たしてどれくらいいるでしょうか。


<選択を放棄した過去>

私はこれまで、

誰かのせい、何かのせいにして

人生を放棄してきました。


その結果、我慢が募り、

ステージⅢのガンを経験することになりました。



以後、私は自分の選択を大事にしています。



『何かあったときどう責任取るの?』

そんな言葉ほど、無責任なものはないなと感じます。


私は、自身の病気から

自分の人生の責任者で自分であり

誰も代われないものなんだと体現したからこそ

何かを強要、強制したりすることを止めました。


ジャッジのない、まぁるい世界を目指しているのも

このためです。


日々の小さな選択が

子供たちの未来にもつながります。


本当に大切なものは何か

本質を見極める力をつけ、

責任のなすりつけがない世界を

創っていきたいものです。