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自由な生き方なんて、知らなければよかった。

知っている人はようこそ、知らない人は初めまして。鶴間恵里です。
フリーランスのデザイナーとクラブのママを経て、一昨年CRANE labという会社を設立して早1年。第2期を迎えたばかりです。

小さな会社を経営して1年が経った今思うこと、そして未来に対して思うこと。
自分の気持ちを整理するためにも書き残しておこうと思います。

もしかしたら同じように起業を考えている人やフリーランスとして生きている人は「良い経験談が読めるかも」と期待しているかもしれない。

だけどここに綴る言葉はきっとそんな期待とは遠くかけ離れた、
生きづらい人生しか歩けない私たちの、生々しい苦悩だ。

私の言葉では、有益な情報も、なにかの助けになる金言もなにひとつ与えることはできない。
だけどこの生きづらい世の中を迷いながら生きている人がいるのなら、「ひとりじゃないよ」と伝えられるかもしれない。

このnoteで伝えたいことは
自由な生き方を選んだことに対する、あまりにも大きい人生の"代償"の話だ。

先の見えない未来を夢見る代償

私の話を少しだけさせて欲しい。

私は小さい頃から絵が好きで、ずっとデザイナーになりたかった。
必ず応募していたポスターのコンクールも毎回入選を果たし、美術の授業も毎回トップだった。自分より絵が上手い人なんて周りにだれもいない、私はこれで生きていくんだって漠然と思っていた。
だけど静岡の田舎で育った私にとって「デザイナー」という職業は身近ではなく、「職業なんてなんでも良いからとにかく就職率の高い学校へ」という方針の親を説得できず、まったく興味の無い学校に進学した。好きなだけでは生きていけないかもしれないという不安に負けた、最初の挫折だ。

進学した学校は、今でいえば即戦力でSEになれるような学校だった。
PCが一家に1台もない時代。同級生はみんな名だたる企業に就職した。
きっと彼らの未来は保証されているんだろう、そう思った。

一方私はデザイナーの夢を諦めきれず、授業は寝て過ごし、夜は独学でデザインの勉強をしてそのまま朝を迎える日々が続いた。
そしてそんな中、ひょんなことからとあるバンドのCDのジャケットやフライヤーのデザインの仕事を任せられるようになった。
見よう見まね、未経験のままフリーランスになった。
当然もらえるお金なんて微々たるものだ。生活のために夜の世界に足を踏み入れた。
独学のデザイナーと水商売の二足のわらじ。就職して正社員になることが一般的な世の中で、明日の保証さえない、道なき道を歩き出した。

この経験は私の人生に今でも大きな影響を与えている。
今思えばあの時、もし親を説得して美大に入学していたらどうだったのだろう。デザイナーという夢をもっと早く叶えて、企業の中で活躍していたのだろうか。そして"正社員でありデザイナーである"という、夢を叶えながら企業の恩恵に預かれる、良いとこ取りの人生を歩めたのだろうか。

そしてその人生を、当たり前のように幸せだと思えたのだろうか。

マイノリティに生きることの苦悩

会社に所属して週5日働いて毎月給料をもらうことが一般的な世の中で、私のように勢い余って会社作っちゃったような人間は間違いなく少数派だろう。ここ数年増えてきているフリーランスも、アーティストだってそうだ。
そんないわゆる一般とはちょっと違った生き方を選んでいるひとは、周りから羨望の目で見られやすい。「すごいね」「羨ましい」なんて言われて気分もよくなるし、当然、自分の意思で好きな生き方を選んでそれで生きていけるということは幸せなことだ。

だけどその幸せと引き換えに、たくさんのものを手放した人も、きっと多いのではないだろうか。

先日、こんなことをTwitterでつぶやいた。

そして自分で書いた投稿を読み返しながら気づいた。
私たちは、マイノリティな生き方を選んだんじゃない。そういう生き方しかできなかったんだ。

実際私は、一度就職を経験した。
フリーランスのデザイナーと水商売を続けて10年。自分の人生を振り返った時、社会経験がまるでないことに気づいて危機感を感じたからだ。それにフリーランスで生きていくことは楽じゃない。そろそろちゃんと安定した職が欲しいと考えた。
賢明な選択だった。
水商売を辞め、派遣社員を経て、一部上場企業のデザイナーとして正社員になった。役職も、給料も、福利厚生も、ボーナスも、尊敬できる上司も、可愛い部下も、今まで手にしたことのないすべてを手に入れた。

そして私生活ではずっと交際していた男性と結婚した。
ふたりでガレージ付きの一軒家も購入した。
なに一つ不自由のない、幸せな人生。

きっとこのまま幸せな毎日を過ごして、そのまま静かに年老いて死んでいくんだろう。
「ああ、これが一般的な幸せなんだ。」そう思った。


それなのに
私はその幸せをすべて手放して、ひとりで起業する道を選んでしまった。


なぜだろう。
たしかに私は幸せだった。間違いなく幸せだった。
だけど、それじゃ生きていけなかったんだ。

人生のゴールが漠然と見えてしまった時、
何者にもなれないまま、何も残せないまま、ただ同じ毎日を生暖かく過ごして静かに老いていくことが恐ろしかった。
あれだけ望んだ「当たり前の幸せ」だったのに。

先の見えない未来を生きることでしか、私は生きる意味を感じられない。
それがどれだけ不安で、どれだけ心細いことなのか知っているはずなのに。

そんな起業から早1年。
自分が選んだ道が正しかったかなんて分からない。
ただ、毎日どんなビジネスをしようとか、世の中をどう変えていこうとか考えて生きていけることは、とても刺激的で幸せだ。

でもふと振り返ると

「自由が無い」なんて言いながら我が子を幸せそうに抱く友達のfacebookを見て、母親になることを諦めた自分に劣等感を感じるし、自分が女性として欠陥人間のようにも思えてくる。

別れた旦那さんは今でも尊敬しているし、きっと彼を超えるひとにはもう出会えないだろう。そんな大切な人を傷つけてまで選んだ自分の人生に何の意味があるんだろうと自問自答を繰り返す日々だ。

会社だって、あれだけ保証された環境にいながら、フリーランスの仕事も認めてくれた。これ以上無い条件じゃないか。

そう、何も失わなくても、そのまま好きなことを仕事にして生きていくことも、起業することも出来ただろう。
だけどそれじゃダメだったんだ。少なくとも当時の私は。
とにかく何者かになりたかった。このまま同じ毎日を繰り返していたら死んでしまうと思った。
そんな生き方しかできなかった。

好きなことをして生きていくことは幸せだ。だけどそれには少なからず痛みが伴う。
自由に生きている人はもしかしたら「自由に生きる」という選択肢を知ってしまったがために、当たり前の生き方をしたくてもできなくて、そのギャップに苦悩を抱えているかもしれない。私は、その生きづらさを知っている。

冒頭に「この生きづらい世の中を迷いながら生きている人がいるのなら、『ひとりじゃないよ』と伝えられるかもしれない。」と書いたが、それは逆だ。私が「ひとりじゃない」と思いたいだけなのだ。

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このnoteは、書き残しておいたまま数ヶ月経っても公開できず、やっと公にする決意ができた文章だ。
私の一番はじめに書くべき文章は、陳腐な自己紹介でも、前向きな言葉でもないと思っていた。

これが、「好きなことを仕事にして生きていく」と言い続けている私の真実だ。

実際こんな苦悩を抱えていても、それでも自分で選べる人生というのはとても幸せだ。
きっと明日も明後日も、不安と孤独に押しつぶされそうになりながら、小さな野望を胸に生きていくんだろう。

マイノリティな生き方しかできないけれど、
「好きなことをして自由に生きる」そんなよくある言葉に象徴される人生は、とても苦しく、同時にとても愛おしいのだ。


株式会社CRANE labの設立から一年。
小さくても良いからこの生きづらい世の中を変えていける会社にしていこうと、ここに生々しい苦悩と共に、小さな決意を残す。

いつかひとりでも多くの人が、自分らしい生き方を選べるように。

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