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映画レビュー「教育と愛国」(2022.5.13劇場公開)

5月13日の封切りから5日経ったその夜の上映回は満席だった。後方の席から観客の後頭部を見渡すと、自分くらいの年代から高齢者まで幅広い人が来ているようだ。


映画は小学校道徳の教科書のページから始まった。続いて朝の登校風景、授業の様子が映る。児童たちはとても素直だ。その素直さに心がざわつく。

戦前にアメリカが製作した国策映画「汝の敵、日本を知れ」が流れ、『教育と愛国』のタイトルが示されたあと、チョココロネが運ばれるパン工場のシーンに切り替わった。このチョココロネは先の映画のナレーションにあった「同じように考える子どもの大量生産である」の暗喩だろうかとわたしは眉を顰めた。

しかしこれは道徳の教科書検定において、ある読みものでパン屋が登場する場面につけられた検定意見に対応して、「パン屋さん」が「和菓子屋さん」に修正されたことにつながるものだった。

学習指導要領に示す内容に照らして、扱いが不適切である。(内容の「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」)

*申請本の該当箇所に付いた検定意見

2017年のことでテレビや新聞でも取り上げられたので記憶に残っている人も多いかと思う。
観客からは笑い声が漏れた。「何なんだよこれは」と笑いたくなる気持ちはよくわかる。

道徳が教科になると何がいけないかというと、「評価」の対象になるからだ。安倍政権下でおこなわれた道徳の教科化は、戦前の教育勅語の柱であった「修身」の復活にほかならない。

映画では出版労連の教科書対策部事務局長の方が説明しているが、文科省は「こう直せ」とはぜったいに言ってこない。ここが基準にあわないから再検討したほうがいいかもねと言ってくるにすぎない。責任は教科書会社にあるのであって、文科省にあるのではない。教科書検定はそういう制度だ。

これに従い教科書の記述を変えることは、教科書の発行を生業にしている出版社にとっては致し方のないことでもある。
戦争加害の記述をめぐって「つくる会」をはじめとする右翼団体の攻撃にあい、採択部数が激減して倒産に追い込まれた出版社があった。

多くの編集者は子どもたちのことを思って教科書づくりに励んでいる。教える先生たちだってもちろんそうだ。
しかしその自由の範囲は政治の意向によって規定され限定される、危機的な状況になっている。

育鵬社の執筆者代表・伊藤隆(東京大学名誉教授)は歴史から何を学ぶべきかと問われ「学ぶ必要はないんです」と答えた。
となりの人が一際大きく笑った。つられてニヤつきそうになる自分の口元を、わたしは反射的に引き締めた。

わたしはこの映画を見るまで「たかが教科書」とどこかで思っていた。学びのツールは教科書のほかにいくらでもあると。
執拗なまでに介入を強める政治家の挙動をみて、歴史修正主義者たちの生の声を聞いて、決してそうではないと目が覚めた。

小中の教科書は無償で配られている。無償ということは国民の税金が使われているわけだ。
その教科書にどんな圧力がかかっているのかを知れば、主権者としての自覚がいっそう強まることだろう。高校教科書だって検定制度の対象である。

自身の研究を「ねつ造」と攻撃されたジェンダー研究者の牟田和恵さんの「政権与党が気に入る方向でしか研究できない、研究費が支給されないということになると、日本の社会科学、人文科学はどうなってしまうのか」という言葉は重い。
日本学術会議の任命拒否問題も取り上げられている。

教育、学問の自由を奪いにかかる政治家たちにこの国を牛耳らせておいていいのか。
人口が減り、経済が低迷し、アジアをはじめとする外国の人たちにも力を借りねば成り立たなくなってきている日本は、自国の正当化をただ一つの歴史認識にすればよいと本当に思っているのだろうか。
子どもたちは「スポンジが水を吸い込むように吸収」する。

無茶苦茶なことをやられ続けたせいで、わたしたちはそれに慣らされすぎてしまったのではないか。
適切な類推とは言えないが、わたしはいまヘミングウェイ「老人と海」を思い出している。老漁師サンチャゴがたいへんな苦労をして釣り上げた巨大な魚は鮫に食われて骨ばかりになってしまうが、わたしたちはあの死にものぐるいの抵抗に学ばなければならないと思う。

教育は人類の未来をつくるものだ。

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