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交感する神と人 ヒンドゥー神像の世界 感想

国立民族学博物館の、「交感する神と人 ヒンドゥー神像の世界」を見てきた。

偶像や絵画、人形、ステッカーやタイルなどの、ヒンドゥー教の神々が表されているものを集めた展覧会である。

装飾も色も盛るスタイルの宗教


まず、装飾も色も盛りまくる、派手な雰囲気に圧倒された。
スパンコール、光る石、金インク、とりあえずキラキラしたものは乗せておく姿勢である。西洋的なシンプル趣味もまた、ひとつの多様な価値観でしかない。「ミニマリズム」や「シンプルな暮らし」の話を聞いてからこれを見ると元気が出る。
実のところ私もどちらかと言うとミニマリストなのだが。
しかし、頭の数も手も増えるのもすごいな……。キラキラパーツや装飾を盛るのはわかるけど、どうして体のパーツが増えるようになったのだろう。

単純に図像の中で装飾を盛るだけではなく、絵に布やビーズ、ラインストーンを縫い付けているものもある。
神像に布を着せるということに意味があるらしい。
メインビジュアルになっている赤子クリシュナ像も、派手な衣服や装飾を用意されている。それが信仰の一環のようだ。
着せ替え人形のように衣服を着替えさせることができる神像もあった。
クリシュナが青肌なのが謎だったが、あとから調べるとあれはインドの人的には黒い肌らしい。


日常の中で神の姿を見る

神の姿を「見る」ことが重要らしく、絵画や偶像だけではなく、日常に使うものにも神の意匠がある。
神の姿や神聖な卍のマークが描かれたステッカー、神話のキャラクターが活躍する絵本やコミック、スマートフォンに神の画像を保存しておく。
日常の世界に神の姿があふれている。
神聖なものを「秘仏」や「ご神体」として隠したり、神の名をみだりに唱えてはならないと言ったりする文化とは真逆を行っている。
また、絵本やコミックにはつるっとした現代的なデザインのものもある。多様な形で神を示そうとしているのがわかる。


多神教はおおむねそういうものだが、現代の感覚では物騒なエピソードが多い。
猿顔の神ハマヌーンが胸をかっぴらいて見せたり、人間の首をネックレスにしているカーリー神がいたり。
神様の世界というのは善悪の境界線が違うのだろうなあ。
現代的な価値観にとらわれないからこそ、神話に力を感じるのも事実だ。


違う文化の人間がヒンドゥー教の神々を描く

ヒンドゥー教はかなり信仰している人が多く、つまりは宗教的なグッズを売るとそこそこの収入を見込める。
ヒンドゥー教以外の文化の国でも、ヒンドゥー教の神々のグッズが作られていた。日本でも、ヒンドゥー教の神々を描いた商品を輸出していた。
日本のタイル会社がタイルにヒンドゥー教の神々を描いており、とてもかわいかった。日本でもこういうのを売ってほしい。陶器って割らない限り劣化しないし。
人口が多い宗教だからこそ発生するできごとだ。


神秘主義とか不可触民とか

神様との合一を願う思想を神秘主義といい、さまざまな宗派でその思想はある。
良くも悪くもいつの時代どこの土地でもある思想だ。
日本では密教や修験道がそれにあたる。

人々から差別を受けてきた不可触民が宗教上特殊な役割を果たしている。
これはインドに限ったことではなく、日本でも差別される側の人間が、祭礼や儀式で特殊な役割をしていたことがあったそうだ。
このあたりのことは、中世の仕事をゲームキャラクター風に語る『十三世紀のハローワーク』に詳しい。
まさに正と邪は表裏一体ということだが、現代的な価値観で言うとたまったもんじゃねえと思ってる人もいるだろうな。


ヒンドゥー教という大きな文化圏

日本にヒンドゥー教を信仰している人は少ないと思うが、ヒンドゥー教の神々が仏教に落とし込まれ、日本にやってきている。
日本とインドは無縁というわけではない。
影響も含めると巨大文化圏なのだが、インドが発展途上国であることから「大きい文化」であることにピンと来ていなかった。
ネパールは仏教とヒンドゥー教を同時に信仰している人が多いようで、ヒンドゥー教の祭りに仏教徒が参加するのに驚く。
でも、日本の仏教徒も初詣するからそんな感じのことなのかなあ。

ともあれ神々の持つパワーに圧倒され、それを信仰するパワーにも圧倒される展覧会だった。
私はスピリチュアルなことが好きか嫌いかで言うと嫌いだが、人間の「信仰」の力はあなどれない力を持っていることはわかる。
何も信じずに生きることは苦しい。この世がつらく悲しいことに満ちているからこそ、人は精神的な世界に惹かれ、祈り続けるのだろう。


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