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読む③
前回に引き続きます。
今回は自分が発した想念についてです。
皆さんは、いわゆる一般的に良くないと思われることを考えた経験はありますか?
あの人が憎い、ゆるせない、仕返しをしてやりたいとか、実際に行動に移すわけではないけれど、心の中で黒いものがふつふつと湧き上がる感覚も時にはあるでしょう。
キリスト教では、そのような想念、思考すらも持ってはいけないと考えられており、その考えは、場合によっては役に立つかもしれません。
というのも、私たちは心の思いというものをあまりに自由にさせ過ぎてしまっているような気がするのです。
念を飛ばすとも言いますが、その力はとても強いと思います。
普段、想念の力をあまりに低く見積もってしまっており、周りに知られなければ何を考えてもいいような感じもありますし、育ってきた中で、
『思いには気を付けないといけないよ』という学校教育は当然ありませんでした。
しかし、思いの大きさは計り知れないほどの力を持っており、それによって現実や私たちの行動は大きく動かされていると思うのです。
もしかしたら、身体や行動はその想念によって動かされているだけで、運転の役割を果たしているのは想念かもしれません。
ガンダムとかエヴァンゲリオンのように、中に操縦する人(想念)があって、外側の肉体はあくまで活動しているだけだと思うのです。
ですので、考えていること、発する想念には気をつけなさいというキリスト教の考えはここではとても役に立つことだと思いますし、それによって外側の現実も大きく変わってくる可能性があります。
では、その想念をどのようにコントロールしたらいいのでしょう。
前回のお話からの流れで、
①人の想念を受け取った場合
②自分の記憶や経験から、自分が勝手に推測した場合
③自分発信の想念
の三種類の想念があるとします。
①と②については、客観的にみて右から左へ受け流す、または出来事に自分の記憶や感情を伴わせないことでその出来事そのものだけをみるというやり方が挙げられます。
では、③ですが、
単純に考えたら、よくないことを考えないようにする、ということになりますので、自分が何を考えるかを常に見張り、良くないことを考えたらすぐに修正するというのが挙げられます。
ただ、そんなの疲れてしまうとか、無意識に考えたことはどうなるのとか、言葉にならない思いは自分でもわかっていないからコントロールできないと思うでしょう。
私もそう考えました。
そして、それと同時に想念を抑圧したらどうなっちゃうんだろうとも。
こんなことを考えてはいけない、こんな風に思ってはいけないと想念を抑圧すれば、心の中に溜まってしまっていつか爆発してしまったり、それでも考えてしまう自分を責めてしまうだけではないかと思うのです。
だから、押さえつけるだけのそのやり方は長続きしないかもしれません。
ですので、ある想念が浮かんで、それが良い、悪いではなく、自分には合っていないと考えるならば、服を着替えるように別の洋服を選択しなおせばいいだけではないでしょうか。
その想念がいいのか、悪いのかで選択しなくていいので、その選択によって自分を責める必要はなくなりますし、今の自分と照らし合わせるだけです。
現実が苦しい状況であったとして、苦しいという想念がもう自分に合っていないと思うなら、そう考えることをやめる、それだけです。
目の前の現実が苦しいのに、そんなに簡単に考えるのをやめるなんてできないという場合ですが、あくまでこれは私のやり方なので、参考までにお伝えします。
まず、どんな想念が浮かんでもそこに良いとか悪いというジャッジをしません。
それによって、そんな風に考えた自分はダメだとか、責めたりもせずに、ただ『そのような思いが浮かんだのだな』と見ます。
そして、その思いを祝福します。
想念は現実に進むためのゴーサインですので、創造、現実を作り出す大きな力です。
そして人は毎瞬、毎瞬、想念で現実を作り出していると思うのです。
ですので、想念がどのようなものであっても、いい、悪いで判断できるものばかりではないでしょうし、人間はそのジャッジをするためにいるのではなく、現実に創造、いつも創り出すためにいるのではないでしょうか。
想念を発信して創造する、これが生きることの意味です。
わかりにくいですか。
『神との対話』の著者ニール・ドナルド・ウオルシュは、これを巨大なコピー機だと著作の中で表現しています。
考えたこと、思ったことが、すべてそのままコピーされ現実の世界に現わされているだけです。
ですので、何をコピーするかは実は重要ではなくて、コピー(創造)することが重要であると言えます。
それは神の領域といえるではないでしょうか。
生命すべてが分け御霊と言われる理由はそこにあると思いますし、神様は遠い空の向こうにいるのではありません。
生命のすべてが神と等しく同じ存在というのは、神と同じで創造するものということだからではないでしょうか。
で、話は戻りますが、じゃあ想念を出して創造してしまった場合はどうしたらいいのかということですが、先程も書きましたが祝福すればいいのです。
『おめでとう』です。
次に、喜べない現実はどうしたらいいのでしょう。
その時はジャッジせずに、ただ見るだけです。
いい、悪いを考えません。
普段の生活で、間違えてコピーをしてしまったことをがありますか。
その時に、コピーする原本(想念)を本来のものと、間違えて置いてしまったという経験があるかもしれません。
しかし、コピーできたもの(現実)に良いとか悪いとか思わないし、むしろ何の感情も持たないでしょう。
そして、ただ淡々と本来コピーするはずだった原本(想念)をコピー機に置きなおすだけしょう。
それと同じことです。
でも、どちらにしてもコピーすること自体はできていますよね。
ですので、そのコピーしたこと(創造)に対しての祝福で、出来上がったものに対してではありません。
ただ、その中には自分が望まない現実をコピーしようとしたのか?と思われるかもしれません。
また、コピーしたいと思っているが、現実に現れないのはなぜかという問題もあります。
ここで注目すべきは、コピー機はあくまでコピーするだけしか機能はありません。
ですので、表面的にはお金持ちになりたいと思っていても、想念の方向が貧困に向きすぎていたり、
『読む』で投稿したように、自分=○○な人、とか定義づけて、ある種の想念を自分の中に抱え込んでいたら、そちらが勝手にどんどんコピーされていくと思うのです。
ですので、現実は気にしないでもいいかもしれませんが、
その一方で、コピーして現れた現実に想念の傾向が潜んでいるともいえるのです。
原本(想念)を見て、コピーできたもの(現実)を知る、
もしくは、
コピーできたもの(現実)を見て、原本(想念)を知る。
これによって、少しづつではありますが、
○○な人とか、自分が偏りをしることができるかもしれません。
ただ、見るだけです。
変えようとしたり、どうしてこうなったかを追求しようとしないでください。
それに理由はありませんし、掘り下げても苦しくなるだけで、解決には至らない可能性があります。
いかがでしたか。
最後はだんだん複雑になってきて、言葉で説明しづらくなりましたが(笑)
呼んでくださった方に届きますように!
今日もお読みいただきありがとうございます!
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