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その場の空気を読んだり、状況に応じて察することはありますか。

むかし『サトラレ』という映画がありました。
ご存知の方もおられるかもしれませんが、心の中で思ったことが周囲の人にテレパシーのようにすべて聞こえてしまう男性の話です。

そして、SPECというドラマの中には『サトリ』と呼ばれる、人の心がすべて読めてしまう女性も出てきます。

この能力は、すべての人に備わっているのではないかと考えています。

思考・感情・経験に基づいた記憶やイメージ・固定観念・集合意識、それらすべてを想念だと私は勝手に解釈しているのですが、

人間はこの想念をずっと外に向かって発しており、人間とは活動する想念なのではないかといつも思っていました。

それぞれの身体の枠を超えて、送ったり入ってくる想念、それを
サトラレたりサトルことをしているのではないかと思うのです。

というのも、私は小さい頃から何となく人が考えていることがわかることが多く、今でも前を走行している自動車が車線変更したり、別の道に行くといったことがそうなる前にわかったりします。

あとは、渋滞や人がイライラしている感情が伝わってきたり、人混みの中では想念がどんどん入ってきて騒がしすぎて疲れてしまったり、

勘の鋭い人や、敏感な方は同じようなこともあると思いますが、それによって、心がざわついたり、自分もイライラを感じるときがあります。

最近では、出来るだけアンテナを向けないようにしたり、基本的に人混みを避けていますが、

その思いは果たして自分のものなのか、それとも周囲から感じ取った自分とは別のものなのか、境目がわからなくなるのです。

想念はそれぞれのものだと思えば、自分に身体の枠からは出ていかないでしょうし、それを言葉にしなければ、音として周りに知られることはありません。

しかし、想念が身体の枠に必ずしも留まるものではないというのであれば、
目には見えない存在ですし、自分でコントロールすることもできませんので、自分の身体からどんどん出て行ったり、また他から入ってくるでしょう。

例えば、家に帰ったら、理由はわかりませんが家族がイライラしているとします。

何となく相手の表情などで感じる場合もあるでしょう。

しかし、そこから相手の発したイライラを感じてるうちに、自分もイライラしてくる、そのうちお互いにイライラをぶつけて口論になる、ということはあると思います。

相手がイライラした想念を発した時は目に見えていませんが、自然と感じ取って、それが自分から発したものなのか、それとも相手のものを感じて自分も同じような気分になっているのかわからなくなることがあります。

発せられる想念は、おそらく言語化されていないものも多く、

こんなことを考えてはいけない
このように考えましょう

と自覚できるなら、口に出すのと同じように、発する内容も自分で選択出来たり、考えないようにできるかもしれませんが、

おそらくそうではなくて、中には言葉に表すことができない、無意識に言葉にならない思いを発していることもあるので、自分の意思でコントロールすることは難しいでしょう。

また、共感してしまって、まるで自分の考えのように受け取ったとしたら、自分の考えではないと明確に拒否できません。

むしろそれが自分の考えなのではないかと思い込んでまうこともあるかもしれません。

両親の教えがこうだったから、という刷り込みや、その想念を自分のものとして受け入れてしまうと、親の考えがまるで自分の考えのようになって、本来自分がどのように思っていたかわからなくなります。

実際、他者に共感する人は優しい人も多く、それは本当に素晴らしいのですが、残念なことにそのような優しい人が、共感力が強いがゆえに心を壊してしまうこともよくあります。

壁を作ることで、飛び交う想念に境目を作ることは難しいと思いますし、一体どうすればいいのでしょうか。

コントロールできないのであれば、どんなこともジャッジせずに受け流すことから始めてみるといいと思います。

目の前に苦しんでいる人がいて、何かしたい、かわいそうだ、という同情の思いが湧くかもしれませんし、その心は素晴らしいです。

しかしその時に、気の毒だ、かわいそう、力になりたい、という気持ちを一旦置いて、ただ目の前の現実をそのまま見ます。

そして、そのあとに同情の気持ちが生まれたら、その想念を右から左へただ受け流していきます。

受け流すこととは、
『私は今気の毒だなと感じたんだな』
と少し遠いところから見ることになります。

もう少し付け加えるとしたら、
『私は今気の毒だなと感じたけれども、それを受け流します』
と宣言してもいいのかもしれません。

気の毒だ、という想念がもしかしたら自分発信ではなくて、他の誰かから入ってきたものや、集合意識によるものであれば、入ってきたものを自分の中に共感という形でとどめなければいい。

どんどん流していけばいいと思います。

他者を気の毒だと思う想念が、どんどん溜まってきたら、
他者を気の毒がる人、という『活動する想念』になります。

そして、それが『私(=気の毒がる人)である』
と思い込んでしまう可能性もあります。

自分はこんな人だという風に、自分を形作って定義してしまっている人は、それが本来の自分なのか、それとも自分が集めた想念で形作られた人なのかわからなくなってしまうのではないでしょうか。

中途半端ですが、少し複雑になってきましたので、次回に続きます。

今日もお読みいただきありがとうございます!


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