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吉田松陰と水戸学:友情と影響、そして歴史の転換点

水戸藩との出会い:若き日の探求者、吉田松陰

吉田松陰は、幕末の動乱期に、わずか30歳という若さでその生涯を閉じた長州藩士です。 熱い志と行動力で知られる松陰ですが、22歳の若さで東北遊学へと出発する前の約1か月間、水戸の地で過ごしました。 当時の水戸藩は、第9代藩主徳川斉昭のもとで進めていた藩政改革の中心地として、多くの知識人を惹きつけていました。

永井芳之介との出会い:世代を超えた友情

水戸滞在中、松陰は藩士・永井政介の屋敷に身を寄せました。 そこで出会ったのは、政介の長男・芳之介という19歳の青年でした。 年齢の近い二人はすぐに意気投合し、芳之介は松陰の旅の案内役を務めるなど、親密な時を過ごします。

松陰は水戸を発つ際、芳之介への別れを惜しみ、

四海皆兄弟(けいてい)

で始まる漢詩を贈りました。 これは、同じ志を持つ者は国境を超えても兄弟同胞のように強い絆で結ばれているという、松陰の熱い思いを表現したものです。 この詩は、永井家に大切に保管され、後に弘道館に寄託されました。

会沢正志斎との邂逅:水戸学との出会い

水戸滞在中、松陰は水戸学を代表する学者・会沢正志斎にも幾度となく足を運びました。 会沢は当時すでに70歳を超える大先生でしたが、22歳の若者である松陰を温かく迎え入れ、自らの学説を授けました。 会沢の著書『新論』は、尊王攘夷思想を体系的に論じた書として、松陰をはじめとする多くの幕末の志士たちに大きな影響を与えました。

松陰は会沢との面会を通して、水戸学の深淵に触れ、その後の思想形成に大きな影響を受けたとされています。

再び芳之介へ:友情と水戸への思い

松陰は水戸を去った後も、芳之介との交流を続けました。 特に、ペリー率いる黒船来航後には、

金台の下(ほとり)、墨奴火船(ぼくどかせん)を泊す

という一節を含む漢詩「有憶長井順正」を芳之介に贈っています。 この詩は、アメリカの脅威を目の当たりにした松陰の緊迫した状況と、水戸学で培われたであろう国を守るという強い意志が感じられます。 この漢詩もまた、芳之介の子孫の手によって大切に保管され、2021年に弘道館に寄託されました。

水戸学の影響:松陰の思想形成と明治維新への道

松陰にとって、水戸遊学は、単なる国内視察を超えた重要な経験となりました。 彼は、兄に宛てた手紙の中で水戸遊学の有益さを語り、獄中手記には、

余深ク水府の学ニ服ス。謂ヘラク神州ノ道斯ニアリト

と記しています。 これは、松陰が水戸学に深く感銘を受け、日本の進むべき道を示すものとして捉えていたことを示しています。

松陰はその後、藩命に背いて東北遊学を続行した罪により投獄されますが、その経験を通して水戸学への理解をさらに深めました。 そして、後に開いた松下村塾では、水戸学の書物も教材に用いながら、高杉晋作や伊藤博文といった、明治維新を牽引する多くの若者たちを育て上げました。

幕末の悲劇:志半ばで散った若き命

松陰と芳之介、水戸学の影響を受けた二人の若者は、やがて時代の大渦に巻き込まれていきます。 松陰は安政の大獄により、30歳という若さで刑死。 芳之介もまた、水戸藩の尊王攘夷派が引き起こした天狗党の乱に参加し、31歳で刑死しました。 二人の若き命は、明治維新を見ることなく散ることとなりましたが、彼らが水戸で育んだ友情と、水戸学から受けた影響は、日本の歴史に大きな足跡を残しました。

おわりに

祖父の兄の永井昭夫が管理していました。
惜別の唄は、祖父が木の板に文字を掘ったものが家に飾ってあります。

2024.7.30

参考文献

  • 吉田松陰の自筆漢詩を特別公開 水戸の弘道館 / 産経新聞

  • 「私はつまらない…」若き松陰の悩み 友人宛ての漢詩文を初公開 /朝日新聞デジタル

  • 弘道館HP

  • 小さな資料室 573 吉田松陰の水戸藩士永井芳之介(順正)に与えた惜別の詩

  • 後期水戸学における「教育」の含意について : その近代「教育」概念の基層としての意味合い

  • 吉田松陰が水戸にやって来た!(12月19日)

  • 吉田松陰…水戸藩士との友情

  • Wikipedia

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