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名前が付かない苦しみ

これまでの記事で何度も書いているので、私が何かしらの精神疾患を抱えていると考えている人は多いと思う。
確かに、精神的に健康か不健康かと言われれば、不健康に思えるような思考や行動もある。
しかし、私は正確にこの病気ですと証明してくれるような材料は何も持っていない。
要するに、私はある病気ですと診断されたことはないと言うことだ。
もちろん、今まで病気だと言うように書いてきたのがまったくの嘘であるわけではない。
これまでにお世話になった二人の臨床心理士さんの見立てに基づいている。
しかし、病気を診断できるのは医師だけであり、その医師から診断を受けていない私は病気であるかどうかわからないのだ。
これから書くテーマに対して、考え方は人それぞれだと思うが、私の考えと、終わりの見えない葛藤について記録を残しておこうと思う。

ふたつの大きな苦しみ

うつ病?
私は大学を1年留年している。
なぜかといえば、うつ病だからである、とこれまでの記事なら書いてきた。
しかし、今回は診断されていないものは断定できないとして話を進めるので、この理由は使えない。
私は病気なのだろうか?
なるべく正確に言おうとすれば、臨床心理士のもとで行ったCES-D(うつ病自己評価尺度)で高得点となり、抑うつ状態を呈する何らかの気分障害であるとの見立てをもらうような状態であった、というだけである。
もちろん、そこで精神科の受診を促されて受診し、約一年半にわたって通院、服薬を続けることになったのだが、その中で、診断書をもらったり診断名を尋ねたりしたことは一度もない。
初診から2週間後の二度目の通院で、急激に悪化して痩せ、ほとんど喋ることのできない状態に主治医が驚き、親が愛知から上京させられたが、一緒に説明を受けなかったので何を話されたのかはわからない。
臨床心理士さんには入院を勧められたが、死ななければならないと思っていた私は、自殺できなくなると思って入院を拒んだ。
そして、最後まで診断をもらうことなく通院を終了したので、私がうつ病(双極性障害Ⅱ型の可能性もある)であるという確固たる根拠はどこにもない。

起立性調節障害?
そして、もう一つ、これまで書いたことはないが、苦しめられてきたものに、"起立性調節障害の疑い"がある。
中学2年生の頃から、朝起きられなくなり、毎日立ちくらみやめまいに悩まされていた。
あまりにも起きられず、部活の朝練に行けなくなり、友達との遊ぶ約束も破り、それはもう、ここには書ききれないぐらい、悔しい思いをたくさんして、挫折感に打ちひしがれていた。
親も、毎日何時間もかけて起きない私を起こすのに苦労し、家の中は戦争状態だった。
一度、病院に行ったことはあるのだが、はっきりとした診断はされなかった。
というのも、起立性調節障害は除外診断であり、他の疾患の可能性が排除されて初めて、新起立試験という検査をすることになる。
貧血や栄養失調を疑われ、血液検査を受けたが問題なかったため、親は病気ではないと思ったらしく、その後受診することはなかった。
高校2年生の頃には、ほとんど問題なくなったのだが、3年生になると遅刻が目立ち、学校から、病院を受診するように言われ、総合病院を受診した。
そこで精神科を紹介され、これまでの経緯を話すと、おそらく起立性調節障害でしょうと言われ、漢方薬を処方された。
検査をしていないので、本当にそうだったのかわからないが、親に病院に行くのを禁止されたので、その後も診断をもらうことはなかった(仮に起立性調節障害だったとしてもすごく軽症ではある)。

何と闘っているのかわからない

上で見てきたように、私がこれまでに経験した、私の存在意義を脅かすような苦しみには名前がない。
そして、それらは目に見えるものでもなかった。
人は目に見えないものには不寛容だ。
周りから、怠けている、甘えていると言われ、甘えではないと自分に自信が持てるぐらい、限界まで甘えを排除しようとしたが、どれほど頑張っても安心できなかった。
他の人は自分よりずっとずっと頑張っているのだと思った。
立ちくらみやめまいは言い訳で、朝起きられないのは怠けているからで、辛いのも苦しいのも死にたくなるのも全部自分のせいだと思った。
でも、本当にそうなのかもしれない。
病気なんて自分に都合の良い言い訳で、本当は全然病気なんかじゃなくて、私は怠けているだけなのかもしれない。
もう、あの時の自分が本当に病気だったのかなんてわからない。
自分が闘ってきたものが幻だったら悲しい。
向かってくる困難と、希死念慮と、全力で闘ってきたつもりだが、何もないところに向かって攻撃していただけだと思うと、自分の人生がとてつもなくくだらなく思える。
病気だという確証があればよかったのに(不謹慎だが)。
怠けるつもりも、甘えるつもりもなかった。
でも、いつからか、苦しくて苦しくて、誰かに優しくしてもらいたかった。
抱きしめて、大丈夫だよって言って欲しかった。
頑張りたいのに頑張れないことに理由が欲しかった。
だから証拠がほしいのか?
それは甘えなんじゃないか?
これからも私は甘えていると自分を責めながら生きていくのか。
病気なんだよ!と言えたら少しは楽になれる気もするが(不謹慎)、その思考自体が甘えであると自分を責めることになる。
もちろん病気だったら何かができなくても良いというわけでもないと思う。
言い訳をしないで、普通にやる努力をできる人間でありたい。
苦しい!と声を大にして言ってしまいたいのだが、自分にはその資格があるのかわからない。
この記事の題名もこれでいいのかわからない。
もしかしたら、心優しい人は、別に病気じゃなくたって苦しいって言っていいんだよって言ってくれるのかもしれない。
でも自分はそんな自分が許せないのだ。

かつては、自分が病気であると考えることを禁じていたが、おそらく病気であると考えるようになったことで、こうして文章にしたり、少し心に余裕が持てるようになった。
診断もされていないのに、こんなふうに言っていいのかとも思うが、どうか許してほしい。

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