【784回】「家なき人のとなりで見る社会」その2
【782回】「家なき人のとなりで見る社会」その1の続きです。
SNSでは、自分を直接見ていない人たちが、勝手に自分の姿を作り上げ、自分の名前に、自分の行動に、言葉に向かって、攻撃的な言葉を浴びせてくる。直接顔と顔を向き合った時には、おそらく言葉にできないような内容だろう。SNSという顔の見えない、日本のどこにいるかもわからない匿名性に隠れ、浴びせられる言葉は恐怖ばかりだ。僕もSNSでは名前を出せない。自分を強制的に否定したくなる言葉に囲まれて、息も絶え絶えになってしまう。
自分が悪いのか?困っている人の支援を助けたいだけなのに。行政に動いてもらいたいのに。
どうして、攻撃をしてくるのだろう。
言葉をぶつけてくる人はどんな人なのだろう。
1つ目。「自分が我慢をしているのだから、みんな我慢しなければならない」と、平等に我慢を求める人。
2つ目。「自分の我慢が限界で、文句を言っても大丈夫そうな相手(例えば、女性、マイノリティ)を探している人」
3つ目。「本当は自分も助けてほしいのに、自分以外で助けてもらえている人がいて、ずるいと嫉妬している人」
などと、想像してみる。
そして、自分の経験を思い出してみる。
自分を呼び捨てにして、暴力的な言葉を吐いてきた生徒。
死んでしまえと叫んだ生徒。
どの生徒も、話を聞かせてもらう時、困った顔や笑顔があったな。
小林美穂子さんは、攻撃してくる人に対して、以下のように書いている。
「あなたも本当は我慢しているんでしょう。わかっているよ」という上から目線ではない。
攻撃的な言葉をぶつけてくる人の姿を想像し、「あなたも我慢しているの?困っているの?」と問いかけているだけだ。
鬼にさせてしまっているのは、困っている人に我慢をさせ続ける国なのではないか?と、著者は言っているのではなかろうか?
つまり、鬼に見えるようで、現実は、我慢を強いられている一人の人間が、SNSの言葉の向こう側にいるということだ。
向こう側にいる人も、おそらく、困っているんだ。
話を聞いてもらいたいのかもしれない。話をさせろと訴えているのかもしれない。
なるほど、と思った。
連帯できたらいいのだろうか?
ただ、攻撃をしてくる相手を理解したり、和解し合うことは難しさがある。
その相手の存在の否定はしない。
それは、自分や自分の周りの仲間を否定する言葉には対決するという表明でもある。
とにかく、「攻撃してくる人は、鬼であり、敵である」という見方だけではないということは、覚えておきたい。
ちょっとした、興奮気味の読書になってしまった。