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【36回】読書日記(190123)

○太宰治「パンドラの匣」

君はギリシャ神話のパンドラの匣という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、 嫉妬、 貪慾、 猜疑、 陰険、飢餓、 憎悪 など、あらゆる不吉の虫が 這い出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸に 悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。

人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依っても規定せられている事実だ。

とはいえ、女性のことであーだこーだ悩むし、病気であることは不安だし。
結局、暗いまま話が終わるのでしょう…と思いきや。

僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」

と、希望を持って終わるものだから。
太宰治の作品で、これほど前を向いて希望を持って終わる作品があったとは。

しばらく、本を眺めてしまっていた。本当に、太宰治が書いたの!?と。


○太宰治「正義と微笑」

人の日記を読む楽しさ。半分読んだ。
しかし、現実にありそうな日記の書き方。最初は長い。途中短くなり、中断する。復活したらまた文章が長い!
日記を通して、若い主人公の悩みや行動を読む。
やはり名言はこれ。

「微笑もて正義を為せ!」 いいモットオが出来た。紙に書いて、壁に張って置こうかしら。ああ、いけねえ。すぐそれだ。「人に顕さんとて、」壁に張ろうとしています。僕は、ひどい偽善者なのかも知れん。

微笑とは、どんな笑みなのか?と想像する。
にやり?くすっ?ふふっ?

しかめっ面では正義はできない。堂々たれ。

でも好きな部分をあげれば、途中で退職した黒田先生の叫びがたまらないのだな。主人公が敬愛する黒田先生。

「もう、これでおわかれなんだ。はかないものさ。実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。教師が退職してしまえば、それっきり他人になるんだ。君達が悪いんじゃない、教師が悪いんだ。じっせえ、教師なんて馬鹿野郎ばっかりさ。男だか女だか、わからねえ野郎ばっかりだ。こんな事を君たちに向って言っちゃ悪いけど、俺はもう、我慢が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ! エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張って来たんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺のほうから、よした。きょう、この時間だけで、おしまいなんだ。もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちの御健康を祈ります。」

長い!!
一気呵成に、しかも強く、熱く話したことだろう!

さて主人公はいったいどんな結末を迎えるのだろう。


○青山新吾・岩瀬直樹「インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと?」(学事出版、2018年12月)

9割読み終えた。

「自立チャレンジタイム」の時数はどうやって取っていたのか(p111〜116)の部分。
実践ができない悩み。
時数の問題。学校で認められない問題。個の努力を超えている問題。
頭を抱える。

それでもね。

多くの一斉授業では、学ぶ内容、進むペース、教材が決まっていて、「みんな同じに学んでいく」というフィクションの上に成り立っています。(p53)


というのは僕も納得で。それぞれの学び方があるはずなのに、認められないものがあるというのは、歯がゆくて。
特別支援学校はそれぞれの学び方を生かしやすい。むしろそれができなきゃダメでしょう。
通常学級において、それぞれの学び方を生かすには、大元の制度を変えていかないとならないのかな。