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【724回】怒鳴りつけないと教えられない、って時点で、恥ずかしいよな(伊坂幸太郎「逆ソクラテス」その6)

伊坂幸太郎「逆ソクラテス」
気に入った言葉を紹介する。全部で9回の予定。
その6は、「アンスポーツマンライク」から。

◯「アンスポーツマンライク」で気に入った言葉①

「いい大人が、小学生にあんなに顔を近づけて、怒鳴りつけないと教えられない、って時点で、恥ずかしいよな」

伊坂幸太郎「逆ソクラテス」アンスポーツマンライク(p194)

「怒鳴りつけないと教えられない」
大人から子どもへ。
親から子どもへ。
上司から部下へ。
先輩から後輩へ。
子どもから年老いた親へ。

「変わらせたい」「わかってもらいたい」「成長してほしい」
そういう思いが、怒鳴りつける側には存在するのだろう。だが、怒鳴りつけるには、条件がある。

「言われた側が反論できない」

相手に対して何かを教える。その人が、年下だろうと年上だろうと、先輩だろうと、社長だろうと、もしかしたら、犬や猫だろうと、怒鳴りつけていたとしたら、それはある意味、大物である。自分の道を突き進んでいる、ある意味、達人である。

しかし、大多数の、怒鳴りつける人には、「この人なら怒鳴りつけてよし」という対象の選択をしている。ロックオンしている。この人にロックオン、反論なし、怒鳴りつけ開始!
「怒鳴りつけて、真剣に、教えている。体罰やパワハラとは思わない」なんて発言は、嘘だ。

教えているのではなく、怒鳴りつけたいのだ。
教えようとしているのではない。相手を屈服させようとしているだけだ。

怒鳴りつけられている相手は、つぶやいていい。
「この人は、私を利用して、自分の立ち位置を作っている。怒鳴りつけていいと思っている。可哀想な人だ。哀れだ。きっと一人きりになったら生きていけないタイプの人間だ。こんな人に対して、自分の人生のエネルギーを割いてはいけない」

「怒鳴りつける側は、生きていてしんどくないのかな、と首をひねってしまう。よくぞまあ、声を張り上げる日々を送っていけるものだ。しかも、自分の行為を正当化するよな」

「いやはや、残念だ人だ」と。

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