「悲しい」話

みなさん、こんにちは。
榎です。

「こうなったら、毎週店の出来事を書くぞ!」と意気込んでいた自分。
なんてことない。

お店はとっくに7月にオープンし、もはや9月。
融資や補助金がことごとく落ちて
「日本死ね!!!」
の意味がようやく分かってきた9月初旬。
何とも無念な夏の終わりです。そして現実逃避してブログを書く自分。

悲しい。

「悲しい」という表現はどうも一方的で、むしろ暴力的だとかねてから思っていた。論争(ってほどでもない些細なけんか)が起きた終盤に、よく見るのは

「私はあなたたちの発言をとても悲しく思います」

のように使われている部分。
もう和解の余地もないし、すり寄らない。
耳も口もシャットダウン。思考も停止。
「悲しい」って言葉は圧倒的に遮断と拒絶が込められていると思います。

しかし、自分にも起きた「悲しい」出来事。
当事者になって初めて思った「悲しい」こと。

自分ではどうしようもないし、受け入れるしかない。
反論もできなければ、あらがう余地もない。
そして、改善策が見当たらない。

まるで大型の台風が迫っているとき、
100円のビニール傘のみで立ち向かっている気持ち。

通常の雨でも巨体の身には足りない大きさの100円傘を持って、
今年最大級の台風に立ち向かっている気分。
台風のシーズンも台風の恐ろしさも知っているのに、
なぜか持っているのは100円の傘。

100円の傘を放り投げて
「もう、どうにでもなれ!」と叫んでいる状況。
それが今。

悲しい。

何が悲しいかと言えば。
母が骨折したこと。

どの程度かわからないけど、今は救急病院に行き、伯母の家にいるとのこと。骨折なので命には別状はないそうですが、1人暮らしの母はしばらく近くの伯母の家で同居するらしい。

悲しい。

悲しいのは、母の骨折で見舞いに行けないことではなくて、その顛末。
母は月曜日にパチンコ屋に行き、その帰り道にふらいて転倒。現在は精密検査中だそうですが、74歳人生で初の骨折だそう。

老いてゆく、母。

悲しい。

母は足立区の梅島という土地で生まれ「そこそこ頭はよかった」(本人談)というか「くそ真面目」(長男=僕談)で貧しい家庭で育った母。実力はあるが高校受験で本命の公立高校受験日に高熱で入院した結果、不合格。高校卒業前の就職試験で、ひとり親の家庭だったが銀行の採用試験を受けるチャンス(60年前の日本!)をもらうも、盲腸で倒れ採用面接に行けず不採用。伯母に「一緒に喫茶店をやろう」と誘われたが、夜営業も手伝わされる羽目に。そこで「スナック」いう業態に気づく。という、母。

悲しい(経歴が面白すぎる)。

結局、当時日雇いの土木作業者である父と結婚し、3人の息子を出産。1人を早世させてしまうが、都内に一戸建てを父と一緒に建てる。根が真面目だったので勤めた会社ではコツコツと仕事をこなし、バブル崩壊で会社運営にあえいでいた父と家庭の経済を救う。しかし、息子は高校時代に実は不登校だったことが発覚(高校3年まで僕は学校と別方面の下り電車にのり、昼過ぎに帰ってくることが多かった)。しかも大学進学に大阪の芸術大学に行くという。それでも父と二人で、家庭を守り続けた母。

息子が大阪から帰ってきたと思ったら、自分の母(僕の祖母)の介護と脳梗塞で倒れた父の1人ダブル介護を背負った母。自身の母を見送ったと思ったら、転々と職を変える息子が伊豆に引っ越すと言われる母。長い闘病生活の末、父を見送り、64歳にして人生初のひとり暮らしを始め、人生初のナンパ(66歳)を受けた母。

悲しい。(母の人生を振り返ったら、切なくなってきた)

そんな母が人生初の骨折。
この話を聞いたとき、不謹慎ながら美空ひばりの「愛燦燦」を思い出した。「人生って不思議なものですね」って部分。不思議すぎる。

でも悲しいのは74にして骨折した母ではない。
選択肢が狭まった人生を送った母、それを手助けできない自分だ。

最初、伯母から一報を受けたとき、
またパチンコがらみの話かと、憤った。
母のパチンコ依存症はなかなか立派なもので、少ない生活費を切り崩してでも時間があればパチンコに行く。何度も注意してもダメだし、本人も懲りたこともあった。

しかし、今回の骨折事件。
今は足が不自由だから行かないだろうけど、
今後死ぬまでこの行為は続くと思った。

悲しい。

ただ、本当に悲しいのは74歳で趣味らしい趣味もなく、友人も少ない母。そんな母にパチンコを取り上げて一体何が残るのだろうか。

弟が早世したときは、気を紛らわすためにジグソーパズルを始めたそうで、自宅に何個も2000ピース以上のディズニーキャラの絵画があった(母はディズニーに興味がない)。

数年前に趣味がないということで、パソコンとインターネット環境、そしてNetflixのアカウントを提供した。最初は「エマニエル夫人がある!若い頃話題になってたのが家で鑑賞できる!」(どういう発想だよ、70歳)と思ったがそれも長続きしなかった。

母がこれから先生きていくために必要な伴侶は、もはやパチンコしかない。僕もこの一家から生まれた長兄の責務を全うし、20代はパチンコまっしぐらだった。しかし、30代のある日、この活動が心底無駄と思い、パチンコを人生の選択肢から外した。僕には仕事やそれに変わる友人や妻(内縁だけど!)との交流を選択した。パチンコが害悪ではない。人生の選択肢が狭すぎるのだ、と感じた。

それが、悲しい。

人生74年積み重ねて選択肢が少ない母。父も祖母も伯母も、仕事に一生懸命な人だった。ただし、自分に注ぐ時間はほとんどなく、祖母は家庭(母は会社員だったので)に注ぎ、父は自身の仕事と家庭に注ぎ、母は親族と父に時間を注いだ。人に依存していく人生は、いい話なんだけど悲しい。愛情をたっぷりに(余分すぎるほど)受けた僕は、母に何か代替案を渡せるのだろうか。

昨晩、母と別居している弟(最近独身なのに家を買った、我が家の出世頭!)「お母さんの面倒大変」という趣旨のメッセージが飛んできて、150キロという距離を感じた。母を呼び寄せ、お店のバイトにしたらどうなんだろうか。もし自分が足立に戻りこの事業を故郷でやれば母に生きがいを渡せるのだろうか。今となってはもう遅い。母は骨折したし、今後も僕は沼津で生きていく。

何もできないから、悲しい。

突然の夕立に、傘もなければ換えの服もない。
でも天気予報ではあたらない「午後に突然の雷雨」の予報。
今まさに、その状況。

夏の雨に激しく打たれ、笑うしかない。
夏に夕立が来る常識も、あらかじめ安全策を講じた天気予報もあるけれど。僕らは生きていくのにはそれを無視しながらやっていくしかない。

晴天の明け方、土砂降りに降られた思いで今日を迎える。
なんて今日は悲しい日なんだ。



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