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丁寧な暮らしごっこ

「本を持ち歩く習慣をつけたいね」

 そう言って恋人は、一冊の文庫本をかばんにしまった。寺山修司だか、江國香織だか、とにかくひいきにしている作家の本。恋人は本が好きで、よく本の話をする。今日はこんな本を読んだよ。この話がおもしろかったよ。それはとても色とりどりな話だ。時に楽しげだったり、時に寂しかったりする。僕は、そんな話を聞くのが好き。と言いつつ、楽しそうな恋人が見たくて、恋人が好きで、惚れてるからかもしれない。

 恋人の真似をして、僕も本をかばんに入れてみた。かばんはちょっと重くなったけど、いびつに歪んだりせず、本の重みは存外しっくりくる。少しだけ、生活が高貴になったような、質の高い暮らしをしているような感じがする。それも、背中からするから不思議なものだと思う。本って、すごい。まあ、それをちゃんと読むかは別の話で、というのも、外出先で本を開いたことといえば、病院の駐車場に停めた車の中で祖母を待っていた時だけだった。

 かくいう恋人も、僕の隣で本を開くのを見たことはないけれど。

 いったいいつそんなに読んでいるのか、すごく気になる。


 僕と恋人は祖父母の家の二階に住んでいる。祖父母の家は、祖父母と、僕の両親と、叔父母が暮らしていたので、三世帯が住める大きさがあって、両親が新築に移り住んでから空き間になっていた二階に、僕と恋人が転がり込んだ。五エルディーケー、くらいある。昔の家で、さらに大工の祖父があちこち改造しているので、部屋の大きさはまちまちで、廊下には段差がある。でも、大きな窓をあけると心地良い風が入り、広いベランダからは湖を一望できて、水道もトイレもついている。お風呂と玄関は、母屋へつながる階段を降りて祖父母と共有している。こうして書き起こすと、かなりよい暮らしをしているのでは、と思う。

 ただひとつ、僕たちにはとにかくお金がなかった。お金は生活の様々なことに必要だ。特に、ごはん。今は祖母の作るおこぼれにあずかって、実家から食材を融通してもらっているけど、これがないと生活できないくらい僕たちはお金に苦労していた。二人とも、労働が得意ではない。労働には得意不得意があって、深いこと考えないで淡々と働ける人が労働に向いている人だと思う。僕は物流倉庫で働いたことがあるのだけど、なぜか無性にむなしくなって、雇用契約も半ばほっぽってしまっていた。どんな人にもできる仕事だから、と、きつい割にやりがいがないから。そんな理由だ。あとは、病院の受付で働いているけど、ここにいつまでもいていいのかな、という気持ちになっている。自分の成長を感じられないから、主体的に働けないから。こっちは、そんな理由が思い浮かぶ。おしゃれな言い訳だな、と、読み返しながらカルピスをすする。

 恋人は作家だ。でも、出版業界に疑問を感じて、プロとして書き続けることに見切りをつけたらしい。今は個人的に仕事を受注しながら、コツコツ稼いでいる。恋人はとにかく自己管理がうまくて、決めた時間にきちんと寝るし、朝も強い。なにより、自分で決めた課題をやりきる芯の強さがある。それが、競争の厳しい出版界でプロデビューを飾った理由なのかもしれない。

 恋人は僕たちの関係においては、アクセルだ。新しいことを提案するのも、実行を宣言するのも、完遂へリードするのも恋人。逆に僕はブレーキ。なまくらで、ちょっと待って、が口癖で、取り組んだことをすぐに中断してしまう。でも、たまにとんでもなく突拍子のない行動をとる恋人を、きちんと制止できるのが、僕の誇りだったりする。それと、時には全力で背中を押せるのも誇り。昼時、セール中のかわいいカットソーをみつけて、躊躇なく購入した。恋人は試着室から、今日お風呂に入るまでずっと着用していた。

「いい買い物をしたね」

「ね~素敵。選んでくれてありがとう」

 絡みつくようにハグをする。

 恋人が脱いだレースのショールを、文庫本の上にしまい込んで、僕たちは地元のショッピングモールを後にした。

ありがとう