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今村夏子『むらさきのスカートの女』(毎日読書メモ(445))

今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日文庫)を読んだ。芥川賞を受賞した作品(短編と中編の間くらいの長さ)に、芥川賞受賞時に様々な媒体に書いたエッセイを合わせて収録。Wikipedia見ても今ひとつピンとこなかった今村さんのこれまでの歩みが、本人の言葉で語られていて腑に落ちた。本当は、作者の私生活とかそれまでの人生とかは、個々の作品の評価とは関係ないものだが、この人は何故こういうものを書きたいと思ったのだろう、と想像するときに、作者の来歴はやはり気になるのであった。

冒頭は、語り手のわたしが、偏執狂的に「むらさきのスカートの女」を、眺め、考察する描写が続く。むらさきのスカートの女はわたしの住む町である意味有名人なのだが、その彼女を付け狙うように観察している黄色いカーディガンの女であるわたしは、誰からも気づかれていない、透明な存在だ。むらさきのスカートの女も孤独そうだが、黄色いカーディガンの女は、更に孤独に見える。そして、黄色いカーディガンの女は、むらさきのスカートの女に話しかけ、親しくなりたいと思っているが、通りすがりの人と関係性を結ぶのはきわめて困難、という論理で、わたしは自分の職場にむらさきのスカートの女を就職させようと画策する。
その算段は上手くいき、むらさきのスカートの女はわたしの職場に来るが、ずっと孤独な姿しか見たことがなかった女は予想外の社交性を発揮し、わたしがアプローチするより先に他の人たちと親しくなっていく。それどころか、職場の上司と不倫までするようになる。わたしはずっと観察し続けている。その合間に、わたし自身が抱えている問題も少しずつ露呈する。わたしの問題と、むらさきのスカートの女の問題が交差したところで、わたしは初めて行動に出る。それは自分自身の新しい人生を切り拓く一端となるはずだったのに、歯車が狂い、むらさきのスカートの女だけが消え、自分は元の場所に取り残される。
ストーカー的な執着と空回りにぐらぐらしつつ読むが、そこに不快感はない。むらさきのスカートの女の心情は、聞こえてきた不倫相手との会話の中でのみ少しだけ吐露されるが、全体としては謎の中にあり、読者はひたすら黄色いカーディガンの女であるわたしの執着に寄り添う。逃げ場がないように見える閉塞感は、いつでもひっくり返すことが出来るのだ、ということが分かったことで、開放感があるのかもしれない。また、むらさきのスカートの女が公園のベンチでクリームパンを食べ、彼女にまつわり付いてくる子どもたちと交流するシーンが、何だかとても明るくて、それも読後感を幸福なものにしているかもしれない。
どこか知らない町で、また、誰かの視線を集めながら、むらさきのスカートの女が幸せに生きていますように。そして、出来うるなら、黄色いカーディガンの女と再会出来ますように。

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