橋本治『巡礼』(毎日読書メモ(476))
図書館の棚の間を歩いていて、橋本治『巡礼』(新潮社、その後新潮文庫、現在絶版?)に呼ばれた。印象的な平野甲賀の装丁。そして、橋本治も平野甲賀も亡くなってしまったと思うと寂寥感。
『巡礼』は2009年に「新潮」に掲載され、同年単行本化された小説。気になりつつ読みそびれていた。まるっとまとめてしまうとゴミ屋敷の住人の物語なのだが、何故巡礼なんだろう、と思っていた当時の疑問は、小説を読んで簡単に判明したが、でも、巡礼に至る道のりは一体何だったんだろう、と読み終わってからまた考えさせられる。
物語の真の主人公は戦後そのものだった。
ゴミ屋敷の住人だった忠市は、終戦時、国民学校高等科1年生だった。わたしの父と同世代だ、と思うとなんとなく肌感がわかる。おそらく空腹とか空襲の恐怖とかは強く体験し、しかし召集されるまでの覚悟はないまま、戦争が終わったという世代。戦前戦中についての言及は殆どなく、忠市の戦後が丹念に描かれるが、その前に現在、ゴミ屋敷がワイドショーの取材を受け、迷惑している近隣の住人のエピソード、近所の人が、ゴミ屋敷の住人を知っている昔からの住人に聞いた話を反芻したあと、実際に昔の経緯を知っているその「田村さんのお婆ァちゃん」の戦後が描かれ、田村さんのお婆ァちゃんが、ゴミ屋敷が新築されたときのことを語り、そこで忠市の章に転換したのは、ハッとさせる構成だった。
商業高校を出て、同業者の元で修業し、家業を継いだ忠市。真面目に働き、家族関係も悪くなかった忠市が、些細なボタンの掛け違えで、少しずつ深い闇の中に入っていく過程。それは誰にでも起こりうる物語だった。高度経済成長とか、景気浮揚とか、実感していたのかしていなかったのか、忠市の世界の狭さと視界の狭さが胸に迫る。
出ていくべき場所を思いつけなかったことが、彼の不幸だったのか。いや、不幸だともたぶん思っていない。黙々と働き、自分の周りに誰もいなくなった時、「何一つ捨てるものはない」という感情だけが残った。
最後に、彼が体験することとなる巡礼、それは彼の人生の新たな旅立ちだったということか。
ここではないどこかを体験することが巡礼だったのか。