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毎日読書メモ(90)『灰の劇場』(恩田陸)

今日は、恩田陸『灰の劇場』(河出書房新社)を読んで過ごした。

先にムック「白の劇場」に目を通しており、その他の媒体でも色々情報が流れていたので、恩田陸が若い頃に新聞の三面記事で読んで、切り抜きも残していなかったのに忘れられないでいた、女性二人の飛び降り自殺について、小説に書いてみる過程を描いている、というのは知っていて読み始めた。

結末のわかっている物語を、何故その結末に向かったかという過程を読みとく、という意味では倒叙型ミステリに通ずるものがあるか。物語は0の章(恩田陸自身がこの物語を書く過程)、1の章(物語の登場人物たちが出会い、死に至るまでの物語)、(1)の章(「灰の劇場」が舞台化される過程を恩田陸が見守る、という架空の物語)が交互に現われ、進んでいく。

恩田陸自身が読んだ、という新聞記事自体が架空なのかと思っていたら、それは1994年9月25日に朝日新聞の東京版に掲載された実際の記事だそうだ(出典)。恩田陸のあやふやな記憶から、編集者が記事を探し、二人の女性は1994年4月29日に奥多摩で橋の上から飛び降り、この9月25日の記事で身元がわかった、と報じられているらしい。死亡時には44歳と45歳だった、大学時代の同級生。二人は大田区で同居していた。わかっているのはこれだけ。

だから1の章は、完全に作者の紡いだ架空の物語である。自分から見て15歳位年上の女性たちが、時代をどのように生き、どのようなきっかけで死を希求するようになったのか、想像し、描く。そこに見えてきたのは人生の閉塞感だ。物語の中で構築されたバックグラウンドは、共に地方から出てきて都内の大学で出会い、片方は独身のままキャリアを積み、片方は離婚して自立することとなった中、共に住んでみることにした二人の女性だが、自分の生涯を俯瞰して、選び取った生活だったのに、そこにもまた限界を感じて、生きていく気持ちがなくなっていったように描かれる。閉塞感は閉塞感として、でもそこで心中を選んだというのに、あまりリアリティがないのだが、何しろ、結末は事実に基づいている訳で、こういう物語もありだったのかもしれない、と思いつつ読む。

それに対し、0の章は、作者恩田陸が、色々なことを体験し、色々なことを思い、二人の人生に思いを馳せながら、物語を書き進める過程を、克明に記している。昨日、桜庭一樹「少女を埋める」を読んだばかりなので(ここ)、妙なシンクロニシティを感じるというか、「少女を埋める」は私小説のようにも読めたが、『灰の劇場』の0の章は創作の過程に特化した部分が多く、私小説というようには見えないな、と思っていたら、突然恩田陸の親の話も挿入され、驚いたり(でもアプローチが全然違うので、やはり私小説という印象はないのであった)。

(1)の章は、0の世界の恩田陸とゆるやかにつながっていて、書き上げた「灰の劇場」の舞台化の過程を見守る過程で、色々な人と対話している。ここの虚構の具合が秀逸で、1の世界で雪のように降ってくる白い羽のエピソードが展開され、それがエピローグにつながる。別々の世界である0と1が(1)を介してゆるやかにつながり、作者は、死者たちの声を聞く。そして、エピローグの0~1という章で、交錯する。

彼女たちが死を選んだ1994年は、作者が職業作家としての道を歩み出した年であった。リレハンメル・オリンピック(荻原健司の連続金メダル、ジャンプ団体で原田の失敗ジャンプの銀メダル)、アイルトン・セナ事故死、米不足でタイ米輸入、ドラマ「家なき子」。阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件の前年、携帯電話はもう存在していたが、持っている人はとても限られていた。オフィスのOA化はまだ進んでおらず、パソコンを使ってない会社や部門も多かった(わたし自身が使っていなかった)。まだワープロやファックス全盛。バブルは崩壊していたが、まだまだ不動産価格は高かった。恩田陸は様々な事象を思い起こし、時代が彼女たちを殺した、とも言えるのではないかと憶測する。
昨日の桜庭一樹に続いて、作家が書く、ということについて、本人が克明に記すこと自体が小説になっている、そんな作品だった。



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