イエテ◯ソラへ (10) ☆ 危機一髪 ☆
昼すぎから夕方まで、空気がもわっと重かった。うだるような暑さ、ってこれだ。風が弱くて、今日は35度をこえてるだろう。コンクリートの床の近くは、ぜったい40度をこえてるはず。はだしでは歩けないもの。シャワーをあびるか、 プールに入りたい。
頭にも汗がじわっとにじむ感じ。シャンプーがしたい! 頭がかゆくなりそう。 あ、もってくるの忘れた! リンスも。
今朝のように、ホース水が、隣から降ってくれれば、とはかないのぞみ!
でも、そう調子よくおじいさんが転ぶはずはないし、転んでも水がこちらへ飛んでくる保証はない。
思いきって水着に着替え、物置のバケツの貴重な水を、水着に少しずつかけて、ぬらしてみた。これがうまくいった。ほんのかすかな風でも、とってもすずしい。
ハンカチをぬらし、首にかけて、これでようやく『ロビンソン・クルーソー』を読む気になった。
縁側にねころんで、水着姿のままで読み始めた。
ところが、まだ難破する場面までこないうちに、その先は真っ白な紙になってしまった。書店にたまに出版社からとどく見本版を、ママが書店づとめの友だちから、もらったものだったのだ。もっとちゃんとした本を選ぶべきだった。
がっかりしたけど、残りの白紙に、好きなことをなんでも描けばいい、と思うことにした。
その時、すぐ近くでガタンと大きな音がして、わたしはとび上がった。だれか来た! 屋上への扉の音だ!
サンダルを外に置いたままだ!
わたしは本をベッドに放り上げて、いそいで網戸の外の、サンダルをつかみ、そうっと網戸を閉めると、ひっしでベッドによじのぼった。心臓がとび出しそうだった。
北側の物置に置いたバッグや、西側の水入りバケツが見つかったら、どうしよう! 廊下の足跡が見つかったら? 頭の中には、玄関まわりの、こぼしたままの水のほかに、何か見つけられるような物を、落としているのでは、と恐ろしい疑いがかけめぐっていた。何もなくても、わたしのいた気配が残っているかも · · ·。
耳をすますと、コンクリートの上を、引きずるような足音が止まって、ふいに園田のおじさんの大きな声がした。
「夕方というのに暑いですなあ。お元気そうでよかった。リハビリ中に、それだけの庭に水やりもたいへんだ」
飛鳥ビルのおじいさんが、夕方の水やりをしながら、何か答えたのだろう。うなるような、ぼうぼうとした、聞き取れない声がした。
「ひと雨ほしいですなあ、まったく」
それから、玄関のあく音。ろうかを歩く足音。鼻歌まじりでおしいれをあけて、何かをたたみの上に放り出す音。鼻歌がとぎれて、よいしょっ、と何かを持ち上 げる声、そのまま遠ざかっていく足音。
玄関の引き戸を、足で閉めているのか、ゆっくりとガタピシ閉まる音がして、そのあと、12階へ下りる重い扉が、開いて閉まる音が聞こえた。
その音が消えてしばらくして、わたしはようやく、張りつめていた肩を落とした。
気を取り直して縁側に下りると、首にかけていた黄色のハンカチが、よしずの陰に落ちていて、息が止まった。見つからなくてよかった!
おじさんが、用事をすませてまっすぐ去ってくれて、ほんとによかった。
そうか、明るい外から家の中に入ると、何もかもが黒っぽく見えて、おじさんは変化に、何も気づかなかったのだ。水跡も足跡も。
でも、油断しないことにしよう。あちこち開け放しているのだから、またいつ閉めにやって来るか、わからないのだから。
5時の市役所のチャイムを聞きながら、夕方の空が見たくて、水着のまま外に出た。隣のおじいさんに見つからないよう、しゃがんで進んだ。
あのアメリカ大陸ほどの水の跡も、玄関までの太い水の跡も、影も形もなかった。なあんだ、心配することはなかった。暑さで、水はとっくに蒸発していたのだ。
まだ早い夕日は真っ赤にもえ、西空はあすの晴れを予告するみたいに、赤々とそまっていた。
その時、隣のビルから、ホースの水が、いきなりふっとんできた。頭から冷たい水をあびて、わたしは思わず腰を浮かせて、隣をふり返った。
おじいさんが、へいにもたれながら、片手でホースを支えて、こちらをひたとにらんでいる。しゃがんでいたつもりだったのに、ちょっと頭が上がったところを、柵のすきま越しに、見られてしまったらしい。
「おあえ、ううえい、う・う・え・い・あ」
おじいさんは低い声で、何度もどなった。わたしは頭をひっこめて、にじるようにして、西側の物置にたどりつき、身を低くしたまま、縁側まで急いで戻った。
何を言っているのか、その時は、まだ考えるよゆうはなかった。
水着の全身がずぶぬれだった。でも、まるで冷たいシャワーをあびたようで、 気持ちがいい。プール用のタオルで体をふき、だぼだぼのTシャツと、青い短パンに着替えると、生き返ったようだった。おなかもすいてきた。
パンではなく、ごはんが食べたい! サラダとか、冷たいそうめんとか、焼き肉とか、から揚げとか、ちゃんとしたものが食べたい。紅茶も飲みたい。
味気ないパンをかじりながら、昨日の夕食用にと、冷蔵庫にラップをかけてあった〈カボチャとニンジンとインゲンの煮物〉が目に浮かんでくる。あれを持ってくればよかった。
作り置きしたものであっても、ひとりで食べるにしても、やっぱりママの作ったものは、おいしいと思う。なんだか切なくて、涙ぐんでしまう。
せっかくレタスを持ってきたのに、マヨネーズはないし、塩すら持ってくるのを忘れてしまった。チーズといっしょにかじったり、塩味のポテトチップスをレタスで巻いて食べ、なんとかおなかを満たすことにする。
その時、ふっと、さっきおじいさんが叫んだ、言葉の意味がひらめいた。
「おまえ、ゆうれいか!」
ゆうれいか、とくり返したのだ。麻美の茂ニイに口ぶりが似ていた。
おじいさんはわたしを見かけた最初から、そう疑っていたんだ。そう見られても、ムリはない。いるはずのないところに、女の子がちらちら見えかくれして、気になるんだ。
あの事件を思い出しているのかも · · ·。
わたしはじっとしていられなくなって、暮れ始めた外へ出ていった。
地上では何があったのか、救急車のサイレンの音が鳴りひびき、車の行き交う音も、ひっきりなしに続いている。近くの踏み切りの警報が鳴り、電車がごうっと、走りぬける音もきこえる。
垣根が2メートルほどとぎれたあたりの、真向かいのコンクリートべいにほおづえをついて、わたしはおじいさんが姿を見せるのを待った。
あの若い男の人が姿を見せたら、やっぱりかくれるけれど、少なくともおじいさんには、わたしの姿をちゃんと見てもらおう。ずっと気にしてるなんて、気の毒だもの。
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