遠藤みえ子
「おはなし」を覚えて語る仲間たち16名で、イギリス児童文学の作品を勉強した上で、作品の舞台を訪ねる旅をしてきました。伝統とイギリスらしさを味わえて楽しい旅でした。
短編や長編の小説の合閒に、ちょっと目についた面白い場面を拾ってみました。楽しんで下さったら嬉しいです。
10歳の男の子たちのある1日を描いてみました。ママたちはお勉強で、隣同士の2人で留守番のはずが、とんでもないことに!
夫の数学者仲間のロシア人、フレニコフ氏に招かれ、彼の勤務先のスウェーデン、ヴェクショー大学で寮生活を2週間ほど体験することになった。北欧の季節、暮らしぶり、人々との交流など、印象を思いつくままに。
母・姉の出身有名校に、補欠以下で辛うじて入学、入寮できた香織は、苦労の連続の中、小さな趣味を特技と学園長に認められ、夏休み中に製作を頼まれる。2学期にその特技が波紋を起こすことに・・。ルームメート、クラスメートにボーイフレンドに支えられて・・。
大学を卒業後すぐに、児童文学クラブの先輩たちが始めていた『バオバブ』という同人の会に加わって、やっと書きためていたものを、会誌に載せる ようになっていた。でも、2年後に25歳でE・Mと結婚し、25歳の内に未熟児の双生児を持つことになったため、私の体力では「会」に残って書くのは無理かも、と思った。ただ、これだけは、どうしても書き残したい、と思うものが私にはあって、すでに大学の東洋史の教授、山根幸夫先生に資料などを拝借してあった。 「リーシュンの赤いマリ」とか「オコリーさんの影
同時期に抽選で当たって、入居した同士の隣近所は、年代がほぼ同じか、 ほんの少し上の人たちくらいで、垣根ごしに良く話すようにもなっていた。道を隔てて、13軒が町会の1グループに入れられていた。 西隣のOさん宅の子たちは、5年生と3年生で大きく、うちのすぐ北側に くっついている家には、小1のひとり息子がいて、お向かいにも小さい女の子が2人、その隣は1歳の男の子など、子どもたちの行き来もよくあった。 うちの双生児は珍しがられ、かわいいねと皆が可愛がってくれた。女の子の方は歩
8畳間に私たち親子が、玄関脇の4畳半は、Mと私の勉強部屋に、6畳間が、義母と義姉の部屋と決め、台所から玄関までつながる広い板の間が、茶の間兼食堂になった。 夜間におむつ替えや、ミルクを2人分飲ませるので、朝眠くてならないのに頑張らなくてはと、朝食作りとMの弁当作りもしてみたら、数日でダウンして、寝こんでしまった。 その頃、倉敷の母からの手紙で、未熟児の2人を世話しながら、高校勤務もあっては、おまえの体が持たないはず。2人を連れて、倉敷へ帰っておいで。短大生の妹もいるし、母
産休明けのK女子校の職員室の朝礼では、以前、英語科の永田先生に指摘 された苦い叱責を胸に、全ての先生に対して、心をこめて丁寧に〈感謝と 御礼の言葉〉を述べたつもりでいた。それでも、その日のうちに、ある独身で50代の〈変人〉と言われている先生が、私のことを言っているらしい 言葉に聞こえたのだが、「月給泥棒だ!」と彼特有の甲高い声で言ったのが聞こえて、やっぱりそう思う人もいるんだ、とガックリした。今までにも、産休を取った人で、その後も引き続き勤務を続けられた人は、めったになく1人
見舞いに来てくれた人の中に、女子大の西寮の頃、私に演劇のしぐさを教わりたいと言い、私が卒業するまでの3年間、時間を見つけては、彼女の演技を見てあげていた、中園陽子がいた。彼女は卒業後、ある小さな劇団に属していて、初心通りに、義母を嫌って、名古屋の実家には帰らない日々を過ごしていた。アルバイトを続けながらの、忙しく演劇ざんまいをしている風 だった。 その日、わざわざ私を訪ねてきてくれたのに、小さな赤ん坊たちをちらと 見ただけで、感想は何も言わなかった。誰もがいう「かわいいね」
2ヶ月と10日かかって、やっと2500gに育ち、いよいよ手元に引き 取る日となった。それまでに色々な準備が必要だった。ベッドの上に、柳 ごうり(今ではあまり見かけないが、柳で編んだ箱形の物入れ)の,蓋と身に分け、それぞれに全体を花模様の布で包んで、底に布団を敷いた。長い ガーゼの布を用意したのは、部屋をそうしする時、こうり(行李)の上全体にガーゼをかぶせて、赤子にほこりがかからないようにするためだった。 ミルク瓶を消毒する器具や、オムツや肌着、産着など、置き場を決めておい
翌日、Mが深大寺から飛ぶようにして来てくれた。義兄は夕べがよほど 遅かったらしく、別の部屋で眠ったままで、挨拶をする暇もなく、姉と 子どもたちにお別れをした。Mが子ども達それぞれに、お小遣いを上げて くれた。 アパートに帰るよりも先に、吉祥寺からタクシーで、深大寺近くの産院に 駆けつけた。 医師は私の腹囲を測ってみて、 「あれ? 僕の計算違いだったろうか? これだと10ヶ月の腹囲だなあ」 と言い、その後、診察をして、 「お、これはすぐにも出産に
翌月の2月1日から3ヶ月の「出産休暇」を取ることになり、前日の1月 31日に、職員室の朝会で教員の皆様にご挨拶し、授業を持っていたクラスへも,挨拶して回った。特に2年13組には、昨年の担任でもあったし、 授業も持っていたので、教室へ入っていくと、生徒たちは〈全員の寄せ書き〉を作って、待っていてくれた。彼女たちは、昨年の3月の終業式の日に、台所用品一式をプレゼントしてくれて、この1年新品調理器で料理作りに重宝させてもらっていた。 「先生、おめでとうございます。読んでみて下さ
その年の夏休みの初めに、Mの大学仲間たちとの旅の計画があり、私も参加する予定になっていた。決まったのが、5月頃で、何の気遣いもない時だったのだ。でも今は、1度流産しかけた体で、大丈夫だろうか、電車に乗るんだけど、と不安はあったが、気をつけることにして、〈磐梯山〉行き参加を実行してしまった。 ところが、案の定、小型の電車に乗り換えとなってから、揺れが激しくなりおなかに不安を感じ危険も感じて、Mに告げ、次の駅で皆さんには失礼して下車することにし、その町の産院へ駆けこむことになっ
大泣きをした日から3日後、女子大の近くの下宿に住み着いている米田淑子を訪ねて、私はMとの話をすべて話した。彼女は母上が、好きな人がいたのに、大学教授の父の方を選んで結婚したが、話がかみ合わず、あまり幸せそうには見えなかったことを、娘としてずっと気にしていたせいもあって、私がS・TとE・Mとで迷っていた頃から、68歳で亡くなるまで、生涯かけて、私の幸せを何度も確かめてくれるようになった。私が子や孫に恵まれた時や、一家でスキーや毎夏の海辺での避暑の話をしたり、作品で受賞したりする
大泣きをした翌日、末千穂さんや米田淑子さんに相談したかったが、それ より先に、S・Tに会いたくてたまらなくなった。E・Mに欺かれた思いが残って、自分自身が汚れているように思えてきてならず。私とTさんの両方にいいかげんな態度を続けるなんて、女性を甘く見てるわ。優柔不断で続けていれば、どうにかなるとMは思っているのか、と幻滅だった。 私はS・Tにどうしても会いたくなって、手紙を書いてしまった。その頃、読書をたくさんしていて、大正から現代にかけての歴史を勉強したいから、どの本がい
大泣きして、S・Tのことを思い出したら、先月の3月初め頃、末千穂さんに聞かされたS・Tのことを、鮮明に思い出してしまった。それは私が挙式をする直前の3月の初めで、式の準備と学校の後始末で多忙の最中だった。以前に「行くのよ、ジュリエット!」と、S・Tに会いにいくよう、押してくれた末千穂さんから「S・Tさんのことで話があるの。5時半ににこけしやにいらして」とハガキが来たのだ。 私はドキンとして、その日の授業も上の空になったほど、動揺していた。S・Tに婚約を伝えたのは誰よりも早く
R大学の助手1年目のMは、大学が始まってみると、毎日出かけるように なった。それも弁当持ちで。前夜の夕食時から、翌日の弁当のことも,頭に 入れておく必要があった。私の学校も始まっていたが、授業が始まるのは 翌週からだったので、送り出したあと、時間の余裕ができて、室内の片付けにとりかかった。 鴨居の上にかけた棚に、雑に重なっている箱やノート類をそろえているうちに、バサリと1通厚めの封書が落ちた。 裏を返すと、Mの妹で、私より半年年上だが、結婚後は私を〈お義姉さん〉と読んで
T女子大卒業後、K女子高の教師職が決まった時、当時の担任の渡辺美知夫教授に、どのあたりで住まいを探せばよいかを、伺ったことがあった。先生は自宅のすぐ目の下にアパートがあり、持ち主とも懇意なので、聞いてみてあげよう、吉祥寺に出るには、バス1本で済むから、便利だよ。緑の多い 地域で,静かないい場所だと思うと言われ、倉敷から上京した妹と2人で、妹が短大を卒業するまで、そのアパートで2人暮らしをしたのだった。 Mとの挙式後は、妹は倉敷へ帰って仕事についていた。 私が結婚して間もなく
私の風邪がおさまり、Mの図面に従って、大きな本箱を作っている最中に、ドアをノックする音がした。荷物の配達人が戸口に来ていた。 「ご注文のウスとキネをお届けに参りましたが、どこへ置きましょうか。 2階へはちょっと運べないですね」 え? ウスとキネ? 驚く私に、Mは嬉しそうに、現物を見てみよう、と私を誘って、階段を下りた。大の大人2人がかりで、ミニトラックから下ろしたばかりらしい。全体をおおっていたムシロのようなものが、はがれている。 「これは重すぎるが、何だろうかと、悪いけ
3月末の挙式までに、クラスの成績を出したり、部活のお別れ会をしたり、と学校関係の始末の他に、挙式関係の雑事がぎっしりあった。招待状を送り出し、当日の記念品を決め、私のウエディングドレスや、新婚旅行先の宿の予約など、多くはE・Mがすませてくれたが、私は一度、ほんの短い日にちでも、倉敷の父母に挨拶をしておきたかった。 終業式がすんだ日の夜行寝台車で、倉敷へ帰った。 母は「ほんとに意地っ張りで、きかない子だねえ」と言い、相変わらず、 仏頂面だったが、驚いたことに、私の着物を数着