遠藤みえ子

東京女子大英米文学科卒。高校教員33年、恵泉女子短大と東京女子大計17年非常勤講師。児文協会員。『あじさい寮物語三部作』他多数。『1945年鎮南浦の冬を越えて』の、日本語版、英訳版が米国議会図書館に2020年所蔵。2023年72回小学館児童出版文化賞受賞。

遠藤みえ子

東京女子大英米文学科卒。高校教員33年、恵泉女子短大と東京女子大計17年非常勤講師。児文協会員。『あじさい寮物語三部作』他多数。『1945年鎮南浦の冬を越えて』の、日本語版、英訳版が米国議会図書館に2020年所蔵。2023年72回小学館児童出版文化賞受賞。

マガジン

  • イギリス時の旅 ー物語の舞台を訪ねてー

    「おはなし」を覚えて語る仲間たち16名で、イギリス児童文学の作品を勉強した上で、作品の舞台を訪ねる旅をしてきました。伝統とイギリスらしさを味わえて楽しい旅でした。

  • 合閒のひと休み

    短編や長編の小説の合閒に、ちょっと目についた面白い場面を拾ってみました。楽しんで下さったら嬉しいです。

  • コロスケ探偵団

    10歳の男の子たちのある1日を描いてみました。ママたちはお勉強で、隣同士の2人で留守番のはずが、とんでもないことに!

  • スウェーデンへの旅 1999年9月

    夫の数学者仲間のロシア人、フレニコフ氏に招かれ、彼の勤務先のスウェーデン、ヴェクショー大学で寮生活を2週間ほど体験することになった。北欧の季節、暮らしぶり、人々との交流など、印象を思いつくままに。

  • 香織の試練(2)ーあじさい寮物語別伝ー

    母・姉の出身有名校に、補欠以下で辛うじて入学、入寮できた香織は、苦労の連続の中、小さな趣味を特技と学園長に認められ、夏休み中に製作を頼まれる。2学期にその特技が波紋を起こすことに・・。ルームメート、クラスメートにボーイフレンドに支えられて・・。

最近の記事

11章(4)育ちゆく子どもたち

もう既に3人の子らは、50代に育ってしまっているが、幼い頃からを振り返ってみると、面白い体験だったなあ、としみじみ有り難い存在に思える。 長男は歩き出すのは1年半すぎという遅さだったが、2歳過ぎのころ「しかし、ニンゲンは・・」と呟いて、すぐ近くで床の拭き掃除をしていた私は、天才を生んだかと、仰天したが、どうやら耳のいい子で、テレビの言葉が耳に残っていただけのことらしい。4年生の夏休み頃は、物を創り出すことに夢中になって、ボール紙やノリ、ホッチキス、セロテープなど使っては、自

    • 11章(3)私の実母の場合

      私はこの母が幼い時から嫌いだった。3歳頃から、私のオネショのしつけとして、背中にお灸を据えられるのだが、そんな時、「これは体を温めるためだからね」と優しく言い聞かせてくれればいいものを、逆に、オネショした罰なのだと言い、今夜はごはんぬき、応接間で反省してなさい、という対応が多かったのだから、皆のご飯と片付けがすっかり終った頃に、思い出したように私を食卓へ連れて行くのだが、その頃には私は食べる気をなくしていて、頑として食べない。「変な子!」というのが、母の口癖だった。お蔭で私は

      • 11章(2)義母の老い方

        私に双生児が生まれて、義母や義姉と同居を始めたのは、義母が60歳の年だった。終戦の年に満州から疎開の名目で、普段着のまま、入院中だった夫と3人の子らと、列車で朝鮮に移動し、8月15日には、運良く南朝鮮の大田で列車が止まった。ここで夫は再入院して死去したのは、義母が38歳の時だった。 子ども3人だけで先に帰国させ、義母は遺骨を持って、1ヶ月後に富士宮に単身引揚げたが、親戚の家で寝こんでしまった。長男のMは大阪の伯父宅へ、長女と次女は山梨県の父の実家である農家に預けて、しばらく

        • 11章(1)私は変人?自分を知る

          私の家では、人寄せの日がわりに多い方だったが、親族の集まりも〈もちつき日〉〈正月〉〈墓参りの日〉〈お盆の頃〉に、義妹の一家とよく我が家で、食事会をした。 そんなある時、義妹の夫である酒に強いN氏が、宴も終りに近い頃、私が台所の流しで洗い物をしているところへ、顔を出して、こう言ったのだ。 「義姉さんは変人ですねえ。うむ、たしかに変人だ」 と、繰り返し言ったあと、変人というぴったりの言葉を思いついたことに、自分で感心したのか、それから帰る時までに10回近くも、玄関でも呟いたり

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        • イギリス時の旅 ー物語の舞台を訪ねてー
          45本
        • 合閒のひと休み
          80本
        • コロスケ探偵団
          27本
        • スウェーデンへの旅 1999年9月
          47本
        • 香織の試練(2)ーあじさい寮物語別伝ー
          50本
        • ○○○ごっこ
          35本

        記事

          十章(13)KADOKAWAでの出版

          以前に『合閒のひと休み』の一文として『ミセス・ハリス・モスクワへ行く』の再版が決まった時期を記したことがあり、460名を超える多くの方に読んで頂いたが、あれから話はもつれにもつれ、出版は遅れに遅れて、予定よりも1年後の、本年11月25日にようやく発売となりそうだ。 KADOKAWAでは、講談社での完訳版が1995年に廃版となった後、20年 以上後に、2019年から1作目の『ミセス・ハリス パリへ行く』と『ニューヨークへ行く』を亀山龍樹訳のままで、出版してしまった。亀山氏は完

          十章(13)KADOKAWAでの出版

          十章(12)出版・寮物語も

          ただO・H氏は、4巻目の『モスクワへ行く』に付記した、私の「解説」文が気に入ったらしく、「貴女は翻訳をするより、物語を書いた方がよい。  できたら送ってください」と言ってくれたのは、救いではあった。 その後、実際に『こまったこまった たんじょうかい』とか、『のぞきあなは ひみつ』を、講談社から出版してもらえたし、『こまったこまった・・』の作品がよく売れて、O・H氏に「こういう感じのを、もっと書いて下さい」と言われたこともあった。が、彼の部署が変わったらしく、以後の関わりはな

          十章(12)出版・寮物語も

          十章(11)O・H氏の言い分

          講談社にも速達を送ったり、TELしてみたところ、廃版にして、手を離れているので、KADOKAWAとの交渉がうまく進むようにとの、現編集長のメールを頂いた。が、一方で、私の当時の事情を話すと、それは酷い、今なら  ありえない話ですね、と言ってくれた広報部の部長もいた。その人はO・H氏のその後をまったくご存じなかったが、私は同社のある編集者から、O・H氏はお元気で、喜寿くらいのお年のはず、彼が最後に勤めていた「野間研究所」に問い合わせるといい、と教えてくれた。そこで、彼宛の質問状

          十章(11)O・H氏の言い分

          十章(10)編集者というもの

          これまでに数社の出版社の編集者と対応して頂いたが、ほとんどの方が、  とても熱心に文章の細かい部分にまで、疑問、質問をよせてくれたり、指摘してくれたりした。同じ語について、ある部分では〈漢字表現〉にし、別の部分で〈ひらがな表現〉していると、「統一性」を指摘してくれて、編集部の方で私が回答した通りに訂正してくれたものだ。 ある女性編集者は、私の〈引揚げ回想記〉の最初に載せた朝鮮の地図について、日曜日に図書館へ行って、地図を調べた上で、電話で質問してきた。 「先生 (私のこと

          十章(10)編集者というもの

          十章(9)問題残した『ハリスおばさん』完訳版

          塚原亮一先生の翻訳講演代理をして間もなく、先生から連絡が入った。            「講談社で、ポール・ギャリコの『ハリスおばさんシリーズ』の完訳版を 作りたいが、だれか紹介してほしい、と言われているが、やってみませんか」と言われた。1978年頃だったと思う。「4作シリーズで、3作まではすでに小中学生向きに抄訳版が出版されて、好評だそうだが、これを完訳の文庫版にしたいそうだ」とのことだった。 私はやってみようと思い、引き受けた。すると、講談社側から、どさっと 大きな荷物

          十章(9)問題残した『ハリスおばさん』完訳版

          十章(8)翻訳講師代理を勤める

          私が30代半ばを過ぎた頃、日本児童文学者協会の「講演会」の知らせが「日本児童文学」のある号に載っていて、創作(長編・短編)、詩作、翻訳など、希望の部門を受講できるとあり、希望者は受講料の送金が必要となっていたので、私は気まぐれに「翻訳・英語」を希望して、代金を送った。 その講演の1週間ほど前の、ちょうど私の高校の授業のない日で、在宅時に、協会の塚原亮一先生から、直接のお電話を頂いた。私は会員になって  まだ3,4年のひよっこなので、先生のお顔も存じ上げなかったが、協会の理事

          十章(8)翻訳講師代理を勤める

          十章(7)夫Mの活躍

          夫Mは助手として赴任した池袋のR大学で、翌年には専任講師となり、さらに2年後には助教授(現在の准教授)となった。10年後には、教職員組合書記長をつとめ、フィンランドで行われた国際数学者会議に出席。翌年41歳で「数学科教授」となり、その後の、日本や海外での会議にも、必ず出席していた。私が出版などで、多忙にしていた頃は、同伴できなかったが、後には、私もオランダや、ポーランドでの数学者会議に同伴させてもらい、何人かの夫人たちとも知り合いとなって、文通も始まり楽しかった。 彼のサバ

          十章(7)夫Mの活躍

          十章(6)子の成長と住まいなど

          私が作品に取組んでいる間に、私の3人の子どもたちは、小学上級生から 中学生になった。家族で毎夏は千葉の海辺の宿へ3泊4日し、冬は長野の あちこちのスキー場へ3泊4日していた。私は雪の寒さで肌が痛むため、 宿のこたつにもぐって、読み物、書き物で楽しんでいた。 父と子たちで、自転車で遠出をすることもあり、檜原村で良い南向きの坂にある土地を見つけた、とMがあっさり約束をしてきて、94坪の土地を買いすぐに山小屋を建ててもらった。ここが、こどもたちの友人と遊ぶ場になったり、Mが碁会を

          十章(6)子の成長と住まいなど

          十章(5)私、都立高校講師に

          私の低血圧による不調は、相変わらずだった。K高校では、講師として、  2時間目以降の時間割を組んでもらい、週に3日に減らしてもらっていたがそれでも2時間目に出るために、八王子の自宅からバス、電車、バスを乗りついで通う、1時間40分から2時間近い時間が辛かった。3人目の子を 育てている頃は、いっそう辛さを感じていた。 その頃、私の疲れた様子に気づいたT女子大の先輩で、同じK女子高校の 講師をしていたNさんが〈コーケントー〉という光線治療器を勧めてくれた。原理は簡単で、太陽光に

          十章(5)私、都立高校講師に

          十章(4)堀内純子と心友に

          第2土曜日の午後1時から始まる、毎月の「児童文化の会」の例会〈実作研究会〉では、早船ちよさんが来られることはなく、常に夫君の井野川潔氏が指導者として、演題に立たれた。しばらく〈書き方〉の注意点などを板書されたりした後、それぞれが持ち寄った作品を、回し読みを始める。読み終えると、夕方の5時までかけて、それぞれの作品についての、各人の感想や批評が発表され、井野川先生の良い部分や再考部分を指摘される。厳しい批評が多かったが・・。 そんな会に出席しているうちに、少しは周囲の人たちと

          十章(4)堀内純子と心友に

          十章(3)児文協会員・児童文化の会参加

          新人賞の最終8人に選ばれた頃に、2人の日本児童文学協会会員の方の推薦で、同会員となった。5月の総会に出席したり、翌年には総会の書記にされたり、短編寄稿を依頼されたり、著作関係での動きが出始めた。 同人誌『バオバブ』を愛読して下さる岩崎京子先生が、たびたびハガキで 私の作品を褒めて下さった。出版社の編集者からもハガキで、書店販売されてる本より、面白く、ぐんといいと励まされた。 バオバブの勉強会は続いていたが、自分で書いた作品を持ち寄って、批評し合うやり方ではなく、有名な作家

          十章(3)児文協会員・児童文化の会参加

          十章(2)全国中学高校教師英語弁論大会 

          同じ頃、K女子高校のG英語科主任から、「弁論大会」に出てくれる人は いないかと英語科の教員8人に呼びかけられた。私は『・・引揚げ回想記』を書いている時に、心にひっかかっていたことがあったので、それを書いて話してみたくなって、手を上げた。他にはだれもいなかったので、私が出場することになった。 英文が出来上がった時、英語科仲間のH先生が、彼女のアメリカ人の友人に1度読んでもらいましょうよ、と言ってくれて預けた。すると、返ってきたコメントの中に、この母上の気持ちは her las

          十章(2)全国中学高校教師英語弁論大会