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イエテ◯ソラへ (9) ☆ ママの癖 ☆

 あのおじいさんはどうしたのだろう。まさか、わざわざホースをこちらへ向けて、わたしの救いの神になってくれるはずはないもの。
 思いきって伸び上がって見ても、だれの姿も見えない。

「おじさん、おじさん」
 声をかけてみた。初めはそっと、それからだんだん大きな声で · · ·、 耳の遠い人だったと思い出したから。下を通る人たちには聞こえないよう、ひかえながら。
 それでもまだ水は流れ続け、わたしはいよいよ心配で、おろおろした。

 その時、生垣の隙間のある、コンクリべいの上で、指の先がひらひらしているのが見えた。
 あ、生きてた! ひざがくずれそうになって、わたしはこっち側の柵につかまった。あちらの指もけんめいに、へいをつかもうとしている。
 おじいさんは、あの下で転んでしまって、なかなか起き上がれないのだ。
「おじさん、がんばって。がんばれ!」
 わたしは夢中で、声をかけ続けた。ずいぶん長い時間をかけて、ゆっくりとうすい白髪の頭が、せり上がってきた。
 そこまで見届けてから、わたしはすっと頭を低くした。まだ見つかるわけにはいかないんだ。

 臭いが消えてる! へやに戻って気づいたのは、まずそれだった。水で流したのと、ときおり吹きぬける風の助けだった。
 わたしは胸のつかえがとれて、もうぜんと食欲が出てきた。時計を見ると、1 1時だ。
 わたしは縁側に座って、パン、ゆるくなったチーズ、なまぬるいソルダム、黒い斑点の出てきたバナナをたいらげ、ジュースを飲み、ポテトチップスを塩味がいやになるまで、ポリポリかじった。
 ちらちらと頭に浮かぶのは、やっぱりママのこと。どうしても気になる。
 もし家出がばれたら、ママはどうするだろう? 何もかも始末をつけてから、パパに電話して、経過報告じゃすまなくて、ガンガン文句を言いつのるだろうな。武春兄さんの時のように。パパ、ごめん、わたしのせいで · · ·。

 ママは自分のせい、というのを認めたくなくて、責められるのを避けようとして、自分から先に、攻めの体勢に入るんだ。それが悪い癖なんだって、潔おじさんが言ってた。
 もっとすなおに、自分のいたらないことを、認めればいいのに。自分をもっと客観的に見て、反省すべきことは、直す努力をすれば、もっと人にも好かれるのに、って。
 実際、ママには友だちと言える人は、書店づとめをしている人が、ひとりいるだけだ。
 おじさんは、人にはほめ言葉しか言わないのだけれど、武春兄さんを引き取る時、ママにそんなことを言っていた。

 わたしはうちのことを忘れるために、またスケッチブックに向かった。でも屋上に出るまでを順に描いていくと、どうしても、我が家の1105号室の内部が、あざやかに浮き上がってくる。
 リビングのガラス戸棚は、今は木製の整理だんすに変わっている。その引きだしの中には、紅茶のカップや洋皿、ナプキンなどが、きちんとまとめて入れてある。
 武春兄さんが、バットをふりまわして壊した翌日、ママはさっさと、もよう替えしたのだ。その思いきりのよさと、手ぎわのよさには、ほんと感心してしまう。
 わたしのへやのベッドカバーの、花かごのもよう、台所の足もとの敷物、冷蔵庫の中身、リビングの窓のレースのカーテン、玄関の花鉢 · · ·、そのどれも、ママが選んだり、手作りしたものだ。そのどれもが、ママのいっしょけんめいの結晶であることは、たしかだった。

★(麻美) ★
 ユカ、どうして学校を休んだのさ? まだ具合が悪いの?
 きょう、職員室の隣の面会室から、ユカのママが出てくるのを見かけて、なんで? って、びっくり! 内藤先生によび出されたのかな。それとも、ユカの具合が、そんなに悪いってこと?
 昼休みの時間に来てた、ってことは、ユカのママは、仕事を休んだんだね。フルタイムのはずなのに?

 いま5時、市のチャイムが鳴ってる。聞いてるでしょ、ユカ? どこで聞いてるんだろ?  あたしは、茂ニイとおばあちゃんと、ゆっくりスーパーアスカまで、車椅子をひいて、買い物に行ってきたところ。
 二人を待たせといて、隣の園田ビルの、11階までビューと上がれば、ユカに会える、と何度も思ったけど、たぶん苦手のママが家にいるかも、と思えてね。
 それに、〈禁止〉を破ることになるもんね。あきらめるしかなかった。

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