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イエテ◯ソラへ (20) ★ おじさんの長い話

 ユカのおじさんて、子どもみたいだね。
「そんな話、初めて会ったあたしたちにしていいの?」って、あたしが言っちゃったほど、内輪の話を始めたんだ。
「どんな話でも、参考にできることあるだろ」だって!
 ユカも初耳でしょ、手短かに書くね。おじさん、話すのゆっくりだね。
「父は、ぼくが一歳の時に病気で亡くなった、中学の美術の先生をしてた母が、ぼくら3人姉弟を育ててくれた。母方のおばあちゃんが、同居して、助けてくれてた。しっかり者の姉(=ユカのママ)は、よく手伝ってた。

 ぼくが3歳で、姉が11歳のある日、おばあちゃんが骨折した脚の手術をすることになって、母はつきそいで半日留守をした。母は夕食用のシチュウを、ガス台にかけていて、姉に時どきかきまわすように、1時間たったら、火を消すように頼んでいた。
 台所のすぐ近くのリビングで、石油ストーブをつけてる頃だった。
 姉は、几帳面だから、リビングで宿題をやりながら、ときどき、ガス台のところへ走ってた。タオルを手に巻いて、お玉でかきまわしてるのが、ぼくにも見えてた。ぼくはリビングの姉の足元で、空きビンで遊んでいたんだ。
 家の中には、姉とぼくの二人だけと思ってた。8歳の兄は、外遊びが好きで、帰ってくるのは、たいてい暗くなってだからね。

 ぼくは、空きビンを持って、庭へ出た。ビンに土や石や花を入れて、手をつっこんで、ごちゃごちゃいじりまわしていたら、気がついたら、手がぬけなくなってたんだ。どんなにぬこうとしてもぬけなくて、痛くて泣くしかなかった。
 あんまり大きな声で泣いたものだから、姉が飛び出してきて、助けてくれようとした。でも、どうしてもぬけないし、ぼくはますます泣くしで、姉はビンをわろうとして、二人でちょっと離れた、車庫の物置へ行ったんだ。
 金づちを使ってコンクリの上で、時間をかけてビンを壊した。血も出たけど、ぬけてほっとしていたら、どこかでボンッ! と爆発のような音がした。
 姉は跳び上がって、走って家に戻った。ぼくもその後から走った。
 台所の方が真っ赤になって燃えていて、炎と煙がリビングから、こっちへ押し寄せてきた。家には入れなくて、姉はおろおろしてふるえて、どうしていいのかわからなくなったみたいだった。

 お向かいの人が、火事よ! と叫んで、消防車を呼んでくれて、大さわぎになった。 結局、空気の乾いてる季節だったから、ぼくの家はほとんど焼けてしまって、残ったのは車庫と、家の北側のひとへやだけだった。

 この火事で、家とか家財とか思い出の品とか、そんなものを失くしただけじゃない。口に出すのもつらいが、その時、8歳の兄が、その日にかぎって、屋根裏のベッドで昼寝していて、逃げられなかったんだ。
 その兄は、いったん眠ると、熟睡するタチでね。起こすのがいつもたいへんだった。
 警察と消防の検分があった時、遺体が見つかって、大さわぎになった。それまで、姉もぼくも、兄は夕方になれば帰ってくると思ってたから、姉のショックは大きかったと思う。
 火事そのものよりも、その後の方が、どれほどたいへんだったか!
 病院から飛んで帰ってきた母は、一時は狂ったみたいになってたし、姉は何度も検分に駆り出されて、質問されてた。ぼくには、くわしいことはわからなかった。

 姉は、警察にも母にも、ガス台の火は、自分がちゃんと消したと、言い通したらしいんだ。だから、どうして火事になったのかわからない、と。
 ほんとに消したのか、ぼくにもわからない。実際、見ていなかったから·。
 ただ、姉はがんとしてゆずらなかったし、日頃の姉を知っている母は、その言葉を信じると、警察にも話したそうだ。
 火元は台所らしかった、だけど結局、古い家ではあるし、漏電 (ろうでん) かそれとも、ストーブに何かが落ちて、燃え広がったのかも、ということになった。

 警察の人に、ぼくもいろいろ聞かれたけど、ぼくは口もおそかったから、中身のあることは何も言えなくて、放免になった。
 よく考えてみれば、姉の注意をそらしてしまったのも、姉の時間を取って、車庫まで遠ざけてしまったのも、ぼくが原因だったんだ。だから、あの火事のほんとうの犯人は、ぼくだとも言えるんだ。
 大人になって、そう思うようになってからは、気がとがめて、あのことはタブーにしていた。姉もおなじだったかもしれない。

 うちの家族は、その火事のせいで、その後もたいへんな災いが続くことになった。おばあちゃんはそれから2年後に亡くなった。
 母は火事のあった土地を売って、賃貸マンションに移ったりするゴタゴタと、仕事の疲れと心労も重なって、姉が大学2年生で、ぼくが5年生の時に、亡くなった。
 姉は知らないけど、母が亡くなる前にぼくに言い残したことがあるんだ。
「潔が大きくなったら、お願いだから、お姉ちゃんを助けてやってね。あの子はなんでも自分で決めて、自分で何もかも背負って、生きてくつもりらしいけど、だれかの助けがなかったら、つらいと思うの 」と。
 母はもしかしたら、姉がかくしごとをしたまま、その後を生きてると思ってたから、あんなことを、ぼくに言ったのかもしれない、とも思えてね。

 姉はあれ以来、前以上に、かんぺき主義が徹底してきて、細かいことまで、ずらずら並べて書いておいて、やり終えたことは線で消して、とものすごくきっちりやるようになってた。
 ぼくはそんな姉を見ていたけど、のろまなぼくに、まねできることではないし、むしろあんなふうに一生を暮したくない、と思ってたんだ。
 それに、母を亡くしたあと、姉は大学の寮に入り、ぼくは母の従兄で、陶芸をやってた人に預けられることになって、その家で育てられたから、中学3年になるまで、別暮らしになった。

 姉が電気関係の会社に、勤め始めて一年たった頃、ぼくを育ててくれたおじさん一家が、岡山へ移って、窯場を開くことになった。そっちへついて行くか、姉のアパートに同居するか、となって、ぼくは姉の方を選んだ。母の遺言もあったからね。
 でも、姉を支えるどころか、その反対だったな。めいわくの限りをやっちゃって。
 一番ひどかったのは、友だちと3人で、そのころ空家になってた家に入りこんで、そこを基地みたいにして、タバコを吸ったり、酒を飲んだり昼寝したりして、 しまいに警察につかまったあげく、高校を停学になったことだ。
〈住居不法侵入〉というやつで、こってり叱られた。退学じゃなく、お情けで停学ですんだから、美大には行けて、美術の教師にもなれたけど、姉はていさい屋だから、もちろんカンカンだったね」


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