イエテ◯ソラへ (8) ☆ 天の助け ☆
わたしはベッドに上がって、リュックの中からスケッチブックを取り出すと、 プールでおぼれた場面から、描き進めた。絵にすると、今の麻美とわたしの違いがはっきりとわかる。
5年生の終り近くまでは、麻美とわたしはおそろいの、短いおかっぱ頭だった。月に一度、麻美のママが麻美を、パパの方がわたしを、それぞれ〈バーバー横井〉 のイスに座らせて、ヨーイドンで、切りそろえてくれていた。
絵の中の今のわたしは、肩まで伸びた髪を、頭の両側で、花かざりのついたゴムでしばってる。6年になってから、塾がひどくいそがしくなって、カットの時間がとれないもの。
背が高くてがっちりして、頼りになる麻美と、ちびでやせっぽちで、下がり眉のわたし。
麻美はわたしにうんざりしてしまったんだ、きっと。公園で初めて会った4歳の時からずっと、ぱきぱきしてて、なんでも先に立ってやれる麻美と、うじうじ迷ってはっきりしないわたし。何かきつく言われると、よけいにだんまり貝になってしまうわたし · · ·。
3月に私立高校受験を決めた時だって、そうだった。わたしにしてみれば、失敗したにしても、中学受験が終わってほっとしてるのに、もう次の準備なんて、うんざりだった。
でも、本人よりずっとがっかりしてるママを、さらに気落ちさせるのが怖くて、 返事をぐずぐずしてたんだ。
よく考えてごらん、こんどこそ失敗しないためには、早めに取り組むことよ、とママはせかし続けた。
結局ママの言うとおりに、別な塾に行くことにしてしまった。ほんとは、高校も麻美とおなじ公立に行きたい、とはっきり言いたかったのに · · ·。わたしがバーバー横井に入りびたりなのを、ママは苦にがしく思ってることを、ようく知っていたから。
とりわけ、わたしが4年生になった頃から、ママはときどき思い出したみたいに、口に出して、わたしの行き先を注意するようになった。言い争いはできないわたし。
そのくせ、ママの目を盗んでは、行くのをやめなかったわたし 。歩いて6分ほどにある、磁石みたいに、わたしを引き寄せる麻美の家へ · · ·。
ごめんね、麻美。六年生の初めからは、ずっと行けないままになってて。
バーバー横井の店の裏のリビングは、6畳しかなくて、そこに車椅子の茂ニイと、おばあちゃんがいて、整理だんすの上に仏壇があって、テーブルこたつがあって、ネコのミチルが、壁ぎわのソファに寝そべっていて。
おばあちゃんの友だちもよく訪ねてきていて、あちこちごちゃごちゃしてたけど、お店の客がのぞきにくるほど、笑い声があふれていて、とっても楽しかった。気持ちがほどけたままでいられて、こんなのいいな、っていつも思ってた。
あそこにいるのが、なぜいけない? 説明してよって、武春兄さんみたいに、口答えできれば、どんなにいいか。
兄さんみたいに最後まで対抗して、おしまいに物をぶつけたり、バットをふりまわして、ガラス戸棚を、ぶっこわすほどのエネルギーは、わたしにはないってこと、自分でようくわかってるから、初めからギブアップ、だまりこんでしまうんだ。
いつか、ママに言える日がくるのかな?
麻美、今日はマンションまで送ってくれて、うれしかった。ほら、すてき、麻美、きれいに描けたでしょ。
わたしは胸の中で、あれこれしゃべり続けながら、時間を忘れて描き続けた。 絵に没頭していると、気持ちが落ちついてきて、心が自由に広がっていくような気がする。
ふっと気がつくと、どこからかピチャピチャと、何かがはね返る音がしていた。なんだろう。
わたしはベッドから飛び降りて、よしずの隙間から外をのぞいてみた。
なんと、隣の屋上から弓なりになって、ホースの水が、こちらの屋上へ降りそそいでいた。日ざしを受けて、小さな虹が見えていた。人の姿はどこにも見えない。
わたしは反射的に、縁側からサンダルをつっかけて、外へかけ出し、物置のバケツをつかむと、身を低くして、水の真下にバケツを置いた。
水の音がバケツの底にあたる、はげしい音に変わった。耳のいい人なら、バケツで水を受けたことが、すぐにもバレてしまいそうだ。
バケツはたちまちいっぱいになった。わたしは大急ぎで戻って、あと二つのバケツにも受けることにした。その間に、一杯目のバケツをひっしで持ち上げて、 玄関からトイレに向かった。すごく重かった。水がこぼれて、コンクリートの床に、黒い水の跡が太くひとすじ残った。廊下には、私のぬれた足跡も残った。
トイレの水槽の中に、移しかえると、レバーを強く押した。流れた! わあ、流れた!
水は一気に流れて、やっと、わたしの昨日からの大きな悩みを、流し去ってくれた。思わずバケツをたたいて、跳びまわってしまった。これって、天の助けだわ!
飛び下りなくてよかった! 先のことはわからないって、ほんとだ! こんな形で解決するなんて、夢にも思わなかった!
あちこちびしょぬれのまま、かけ戻ってみると、バケツは満杯にあふれている。わたしは三つめのバケツに替え、次の時のために、二つめをつかんで、またトイレの水槽を満たしに走った。黒い水の跡は2本になった。
三つのバケツを満杯にして、物置へ並べて置いて、ほっとひと息ついて戻ってみると、まだ水はジャージャーと音を立てて、流れ続けている。
屋上の床の黒いしみは、アメリカ大陸ほどにも大きくなっていた。
わたしはこの時になって、ようやく変だ、と気づいた。水の源に異変が起きたのだ、と思い当たったのだ。
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