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イエテ◯ソラへ (1)1105号室

☆ 1105号室 (裕香) ☆

「おじさん、そこでとめて。そこ、そこ」
 麻美(まみ)の大声で、わたしはぼんやり目をあけた。〈マンション園田〉の入り口が ぼうとかすんで見えた。
運転していた用務員の森さんは、車をとめるとすぐに、わたしの降りる方へまわってくれた。麻美はわたしのカバンと、ぬれた水着入りの袋をかかえて、わたしの背中を支えてくれている。
「だいじょぶか。おぶってやろか」
 森さんが背中を向けた。わたしは手をかすかにふった。
「その荷物をよこしな」
 のろのろと車を下りたわたしを麻美が支え、森さんが荷物を持って、三段の階段を上がった。真上からの日ざしが、まぶしい。
「···ここでいい···」
 ドアの前で、なんとかそれだけ言って、二人に頭を下げた。麻美が今日にかぎって、どうしてついてきてくれたのか、信じられない。中学に入ってからずっと、同じクラスにいるわたしを、避けてるみたいなのに · · ·。

 〈松の湯〉のクミや〈ラック・ドラッグストア〉の朝子と、三人で何か笑ったりしてると、わたしのことを笑ってる、と思ってしまう自分がみじめだった。
「だめだよ、へやまで行ったげる」
 麻美は強く言って、森さんから荷物を取り上げた。担任の内藤先生に頼まれたんだ、きっと。
 やっとのことで、カギをドアにかざした。ピッと音がしてガラスのドアが開くと、麻美はわたしの背を押すようにして、入ってきた。
 ちょうどその時、ロビーの向こうのエレベーターから、管理人の園田さんが、巻いた花ござをかかえて、出てくるのが見えた。
 とたんに、麻美が急に背を向けて、荷物を森さんに押し返すと、外へ出ていった。顔をかくすようにして · · ·。変なの、と思ったけど、わたしは麻美をふり返る元気もなかった。
 森さんは首をかしげながら、エレベーターまで荷を運んでくれた。
「へやまでだいじょうぶか」
 心配そうにきく森さんに、わたしはうなずくついでに、深くおじぎをした。早くひとりになりたかった。


 お昼前のエレベーターには、わたしひとりだ。ドアが閉まり、手さぐりでボタンを押すと、張りつめていたひざがくずれて、しゃがみこんでしまった。もうへとへと···。
 貧血かな、プールの中でふうと力がぬけたのは · · ·。夕べも眠ったのは1時過ぎだった。このところ12時過ぎが多い、そのせいかも · · ·。あのままだれにも気づかれないでいたら、水の中で死んでいたはず。その方がよかったのかも · · ·。
 今、わたしの頭をこじあけたら〈つかれた、つかれた、もう限界〉という言葉が、運動会の万国旗みたいに、ずるずるとつながって出てきそうだ。

 チンと止まる音がして、わたしはカバンや袋を押し出して、這うようにしてエレベーターの外へ出た。ここから18歩歩けば、1105号室だ。
 壁をつたいながら、やっとたどりついた、と見上げたら、あ、表札がちがう! 斎藤だって。葉山じゃなく。またか! 11を押したつもりで、12階を押したんだ、あーあ! 早く帰りたいのに! めちゃ疲れてあせると、こうなってしまう。
 しかたなく、もう一度エレベーターに戻りかけると、チャリーンと足元で音がした。コンクリの床を、光るものがすべった。けとばしたのはわたし?カギだった。うす汚れたみどり色のリボンつきの。なんとか拾い上げて、胸ポケットにつっこんで、もう一度エレベーターで11階へ下り、のろのろとわが家へ向かった。
 やっと1105号室のカギを開けた時、リビングの電話のベルが鳴っていた。いそぐ気になれず、ゆっくりくつをぬいでいたら、聞き覚えの声が聞こえてきた。
「ねえさん、かわりはないかい。今から家内と武春(たけはる)といっしょに、備前焼の釜元へ行ってくるよ。3泊4日だ。夜にでも、電話する、じゃあね」
 のんびりした声が切れた。ママの弟の潔(きよし)おじさんだ。武春兄さんをもう一年も預かっているものだから、ときどき留守電を入れてくる。

 いいなあ、兄さんは! 高校はもう試験休みだから、おじさんと旅行するんだ! いいなあ。うらやましくて、涙が出そう。わたしもそんな自由がほしい。ああ、兄さんほどの勇気がほしい!
 荷物はそこに置きざりにして、玄関わきの自分のへやのベッドに、制服のまま倒れこんだ。それきり何もわからなくなった。

★(麻美の赤いノートより)★
7月 ×日
 ユカ、きょうのあのざまはなに? 4年までスイミングに通ってたユカが、学校のプールでおぼれるなんて、信じらんない。すぐうしろであたしが、気がついたからよかったけど、あぶなかったんだよ。
 山田先生が青い顔したユカに、何度も息を吹きこんで、胸をぐいぐいおして、 やっとユカが息をふきかえした時、あたし、立ってらんなかった。むしゃくしゃして、ほっぺたをピシャピシャ張ってやりたかった。ほんとに目をさましなよ、って!
 ぜったい勉強しすぎの、睡眠不足の、休養不足だね! なんで自分の状態がわかんないのよ。おとなしくてうじうじしてるくせに、何かやりだすと、止まんないんだ。あんまりがんばりすぎると、死んじまうよ。頭いいくせに、ばかみたい!
 ほんと、むしゃくしゃして、思ってることぜんぶ書いて、ユカにこのノートをわたしてやる! ってきめて、学校の帰りにこのノート買ってきたんだ。

 うちは大ニュース発生! わくわくするけど、ほんとは悲しいような、フクザツ気分。前から話はあったんだけど、とうとうひっこし先が見つかって、この理髪店を売る事に決まったんだ! 夏休みがおわるまでに、家じゅう空っぽにしなくちゃ。。
 そしたら、幼稚園に行く前から、ずっといっしょだったユカとも、お別れってこと! ユカとは大事な特別の関係だったんだって、つくづく思っちゃった。
5年の頃は、うちによく遊びに来てたし、うちでごはんを食べたり、おふろにいっしょによく入ったもんね。
 5年の終わり頃まで、あたしがお話をしゃべると、ユカがマンガを描いて · · · あれ、ホント楽しかった! また、やりたくてたまんないけど、もうできなくなるんだ。このノートをわたすのは、いよいよひっこし、って日になるのかも。

 ひっこし先は、同じ市内なんだけど、山に近いM町の古い大きな家を、リフォー ム中なんだ。そっちで理髪店を続けるもんで、道具やいすは、今の店のを使うんだって。お客が来てくれるかどうか心配だけど、競争相手の店はほとんどないらしいよ。
 そこは、茂ニイの養護学校に近いし、おばあちゃんを迎えに来てくれて、遊びに行ける老人センターも近いんだ。
 あたしはM中学に転校するんだ。山に近い田舎だから、コンビニもファミレスも遠いし、大好きなソフト部が、あるかどうか気になるけど · · ·。なけりゃないで、あたしが部を作って、キャプテンになろうかな!

 おばあちゃんが、ユカちゃん、このごろ来ないねえ、って何度もいうもんだから、茂ニイが、ユア、オナイ、ユア、オナイって、あたしが口にふたをするまでくり返すんだ。
 父さんまで、ユカちゃん、カットに来なくなったのは、どうしてだ。けんかしたのか、なんて、あたしにとばっちりだよ。あんなおとなしい、かわいい子とけんかするたあ、おまえが悪いにきまってる、ってこうだもん。あ、おばあちゃんが呼んでる! またね。


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