見出し画像

#31 人のようにふるまう部屋

一か月のまとめ。

この「部屋のなかの部屋」というマガジンは、在宅勤務によって、身体や言葉がどう変容していくのかという記録のようなものとしてはじめた。

一か月の段階で、これまで出た話題をふりかえってみる。

・無言 →  朗読
・座る →  立つ
・プチ断食
・不安 →   実体のなさ →  手触り
・散歩
・俺か、俺以外か。
・すべて詩
・疲労
・対話 →  ツイキャス
・未来(アフターコロナ)
・閉塞感
・愛の不時着
・生活
・スキンケア
・部屋
・投稿
・料理

ならべてみると、見事に在宅勤務しているなあと思う。ひきこもりから出てくる欲求に忠実に従っている。とりわけ「生活」に目が向いている。「部屋」のなかにずっといるわけだから、それも当然のことだ。しかし、思い返せば、ぼくの関心はいつも「生活」することにあった。

あまりコロナとは関係もないが、今日は「生活」と「詩」についての話。

むかしから自分の「生活力」がすさまじく低いことがずっとコンプレックスだった。なぜ、大人になっても、一人前の生活ができないのかずっと疑問だった。一つの答えは、体力的な問題などで、結局仕事に忙殺されて、「生活」を組み立てて継続するということが困難だったということだ。

そこで、「体力」を改善しようとジム通いをはじめて、筋肉をつけてみたり、体重を増やしてみたり、さまざまなことをして、少しずつ、少なくとも1日をなんとか過ごすことができるようになった。だが、それでも自分の納得のいく「生活」はできなかった。

しかし、この在宅勤務で家から出なくていいことと、対人ストレスが減少したことで、ずいぶん自分の「生活」を組み立てることができるようになってきた。おそらく、こんなに自炊したことは人生ではじめてのことだし、掃除も洗濯もゴミ出しも買い出しも、こんなにできたことはない。やっと、まともな「生活」ができるようになったという喜びがおそらくこの一か月にはあった。

とはいえ、最近はまた仕事の方もきつくなってきて、家にいながらも、ずっと仕事をしている感じになってきてずいぶん疲弊している。こういうときにルーティンが崩れがちで、また一から立て直すこともまたストレスになっていく。

それこそ、これまでの経験上、明日の自分を一ミリも信用していないので、明日の自分がなんとか行動的でいさせるようにさまざまなトラップを仕掛けるのだが、巧妙な明日の自分は、それらをするりとかいくぐっていこうとする。

いつになったらいい「生活」ができるのだろうか、という絶えない欲求ばかりがある。だから、よくYouTubeなどで公開されている他人の生活をのぞくのが好きだ。どうしたらこうなるのかをずっと考えている。あるいは、知人の家に行ったときに、センスのいい部屋になっていたりだとか、いい食事が出てきたりすると、たまらなく羨ましく思う。

よくこころのなかで「生活のセンスがある人が好きだ」と言っていたが、それはいまでも思う。自分には何が欠けているのか。なぜ、望むような「生活」ができないのか。なぜ、こんなに「生活」に向いていないのだろうか。

と、「生活」に執着する心がある。

ぼくがこのnoteではじめた最初のエッセイシリーズは「詩的生活宣言」だった。同人のコンノダイチに聞かれたことがあった。「「詩的生活」って蒼馬にとってはどういうものなの?」と。しかし、ぼくはそのとき、あまりよく答えることができなかった。だが、いま思えばもとめていたのは「詩的生活」、つまり、「生きる」ということそのものが「詩」になるように、ということだった。

ランボーという人は、『地獄の季節』を書いたあとで、自らが詩になるべく筆を折って砂漠を歩いていった。どこかで、そういう姿を追っているのかもしれない。だが、ぼくはそういう破滅的な「詩」は求めていないように思う。

ぼくが書く詩に「悪」は出てこない。極めて「善」的なものしか出てこない。これは、ずっと思っていたことだが、どんなにがんばってもエログロナンセンスな描写は書くことができない不思議。自らの世界に「悪」を入れ込みたくないのだろう。

つまり、ぼくの「詩」は「善」なるものなんだと思う。そして、そういう「善」的な「生活」を、求めているのかもしれない。なぜ、望むような「生活」ができないのか、という問いの答えは「善」なのか。

「悪」の入り込む余地のない「生活」に仕立て上げること。

それはおそらく、本質的にぼくが「悪」だからなのかもしれない。

「善」になりたい「悪」。

ぼくが言う「詩的生活」っていうものは、そういうものなのかもしれない。

そして、「善」に近づいたところから、いまは詩が出てくるのかもしれない。自らに欠けている「善」なる「生活」。ほんの束の間、「生活」らしいことをやっていることの喜びとして、そこに一篇の詩が生まれるのかもしれない。

人が、人のようにふるまっている。

それが嬉しくて。

【蒼馬の部屋-dialog-】
#06 2020.05.17(SUN) 21:00〜
ゲスト:野々原蝶子さん
Twitter @tyou_ko
note https://note.com/kujira_no_uta
詩集『永遠という名のくじら』(私家版)
「日本海新聞」にも多数投稿詩掲載。

ツイキャス https://twitcasting.tv/ssk_aoma
マガジン『部屋のなかの部屋』
在宅勤務でひとり部屋に引きこもった生活の様相を記録しています。そこから「言葉」がどう変容していくのか、アフターコロナにむけた「詩」の問題を考えています。一か月、毎日更新しています。ぜひフォローお願いします。




この記事が参加している募集

Web Magazine「鮎歌 Ayuka」は紙媒体でも制作する予定です。コストもかかりますので、ぜひご支援・ご協力くださると幸いです。ここでのご支援は全額制作費用にあてさせていただきます。