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#37 いつのまにかぼくたちはメディアの言葉で話すようになって、めまぐるしい日々を過ごしている。

一歩進んで二歩さがる。

刻一刻と、見える風景が変わる。緊急事態宣言が解除されるときの感情と、解除されたあと、それから、通常勤務が再開した日と、その翌日。今日は、そんなめまぐるしく変わる風景と言葉についての話。

緊急事態宣言解除後の一週間

今日、「東京アラート」の発動の気配が漂っている。まもなく、発動されるらしい。発動されたとしても、何がどうなるのかよくわからないが。ただ、緊急事態宣言が解除されてからの1週間あまりはなにかおかしいといえば、おかしかった。

そもそも、問題は何も解決していないのに、まるでなかったかのように、もとの日常を再現しようとしたわけだから、また問題は発生するに決まっている。

経済活動も教育活動も何から何まで一気に解除したら、それはまた元の満員電車が戻ってくるのは想像にかたくない。それにともなって、「密」が発生することも、難しい想像でもない。そうなると、再び感染者は激増することは目に見えている。

それでも、「ウィズコロナ」宣言をしたのは、経済的に危機的状況があるからだ。ぼくは一部の経済活動は再開するべきだと思っているから、そういう意味でも、特に都心はまず経済活動を第一に再開し、教育活動はその様子を見た後などに段階的に再開するべきではと考えていた。

子どもたちをこの時期に経済活動と一緒に再開することにはやはり疑念がある。もちろん公立学校のオンライン授業の導入がほとんど一桁レベルに普及していないことは問題だが、それこそ国レベルでオンライン授業支援策を講じるべきだと思う。現場が対応できないのであれば、せめて既成のオンライン授業サービスを受講できるようにするべきだと思う。やはり対面ガーーなどと言っている場合ではない。とはいえ、ここでコロナ対策について云々しても仕方ない。

考えるべきは、この「めまぐるしさ」にあると思う。ある意味では、自粛生活中は、停滞していて、こんなにめまぐるしく風景が変わることはなかった。

一日一日が、自分で決めた「生活」が淡々と繰り返されるルーティンのような自粛生活だったが、徐々に緊急事態宣言解除あたりから、他のリズムが侵入してくることで、かなり心情的な揺れがあった。

そして、いざ昨日実際に出勤してみると、よくわからない「歓び」のようなものが湧き起こって、妙なテンションで帰ってきたものだが、今日の正気に戻ったような「いやいや、やっぱりおかしいでしょ」という気分はどうもちぐはぐな感じがして、自分でも分裂しているような気がする。

メディアの言葉と「大衆」の復活

でも、その妙な心情の揺れに、どうもメディアの「言葉」が関係しているように思う。日々、刻々とTwitterのトレンドが移り変わって、検察についての反対運動だったり、最近ではテラスハウスの木村花さんが亡くなったことが大きな話題になるなど、「大衆」の言説が一つの方向に向かってなだれこんでいくような感じがする。

少なくとも、その「#東京アラート」だとかさまざまなトレンドの「言葉」がぼくの精神状況の大枠を決めているようだ。戦後日本の高度成長期以来、お茶の間が登場し、テレビが一つの大衆の意志の反映のような部分があり、ネットの登場によって、それらが解体し、さまざまな文化的トライブが発生して、一つの大きなトレンドを作ることはなくなっていったが、ことコロナの流行以来、そういう一つの「波」のようなものができるようになった気がする。

今日も職場で「木村花」という話題が出ると、誰もがまるでテラスハウスを見ていたかのように語り出した。ぼくは毎週楽しみにテラスハウスを見ていただけに、なんであなたたちが「花」のことを知っているの?という、あるコミュニティ内でしか共有されないことを、なぜか外側の人たちが知っているときの変な気持ちがした。

そうやって、芸能人でもない人のことを、誰もが知っていて、誰もが語りうる何かを作り上げたということも、この数か月での変化なのだろう。そして、毎日毎日、少しずつ話題が変わっていく。人々の関心が移っていく。

そうした「言葉」の切れ端が、ぼくたち個人個人のどこかに刺さったまま、日々を過ごすことで、「めまぐるしい」心情の変化を迎えているのではないか。Twitterやまとめサイトやニュースサイトの言説もほぼリンクしているから、いま、ほとんどの人が同じことを考えているのだろう。これが「非常時」かと思う。

メディアと同質化する言葉

そう考えると、限りなく同質化しているのが、現在の「言葉」の環境なのだと思う。ここまで書いてきたぼくの「言葉」も、今日まで自粛期間中に書いてきたものも、「詩」でさえも、そういうネットの言説におんぶにだっこ状態なのだと思う。

そういう違和感に、今日、遅すぎるかもしれないが、やっと気が付いた。毎日毎日、自然に目にするTwitterのタイムラインやニュースサイトを追って、ぼくは何かを探していたような気がするが、そういう「言葉」にぼくは逆に侵食されていたのだ。

そうして、ぼくは「自粛期間中」の「言葉」の変化などについて書いてきはしたが、大部分がこの「メディア」の「言葉」に、変容していったのかもしれない。

果たして、この状況がいいのかわるいのかはわからない。時には「時代と寝る」ことも大事だとも思うし、こういうときこそ、メディア言説を無視した独自路線を歩いていくことが一つ、とも思う。

ここまでは、むしろこの「自粛期間」による「言葉」の変容を捉えることがテーマであったがゆえに、「時代と寝る」ことをよしとしてきたし、寝ている状況を実況中継していたようなものだ。だが、いざ時代とベッドイン状態の自分を見ると、気色悪いと思ったり、時代となんか寝てやるか!と思うのが人情だ。

ただ、「メディア」の言説から距離をとることはいま、かなり恐怖だ。単に情報に疎いだけにとどまらず、ある意味ではいまの社会で情報不足は決定的に不利というか、感染症対策等を鑑みても命にかかわる問題でもある。

そういうなかで、きっと「安心」を求めて「メディア」の「言葉」を辿っていき、「同質化」することによって、「安心」(のようなもの)を得ているのだろう。それが、戦前戦中には危険な方向に進んでいったのかもしれない。

萩原朔太郎の「群集」との距離感

 軍隊
   通行する軍隊の印象

この重量のある機械は
地面をどつしりと壓へつける
地面は強く踏みつけられ
反動し
濛濛とする埃をたてる。
この日中を通つてゐる
巨重の逞ましい機械をみよ
黝鐵の油ぎつた
ものすごい頑固な巨體だ
地面をどつしりと壓へつける
巨きな集團の動力機械だ。
 づしり、づしり、ばたり、ばたり
 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

この兇逞な機械の行くところ
どこでも風景は褪色し
黄色くなり
日は空に沈鬱して
意志は重たく壓倒される。
 づしり、づしり、ばたり、ばたり
 お一、二、お一、二。

お この重壓する
おほきなまつ黒の集團
浪の押しかへしてくるやうに
重油の濁つた流れの中を
熱した銃身の列が通る
無數の疲れた顏が通る。
 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく
 お一、二、お一、二。

暗澹とした空の下を
重たい鋼鐵の機械が通る
無數の擴大した瞳孔ひとみが通る
それらの瞳孔ひとみは熱にひらいて
黄色い風景の恐怖のかげに
空しく力なく彷徨する。
疲勞し
困憊ぱいし
幻惑する。
 お一、二、お一、二
 歩調取れえ!

お このおびただしい瞳孔どうこう
埃の低迷する道路の上に
かれらは憂鬱の日ざしをみる
ま白い幻像の市街をみる
感情の暗く幽囚された。
 づしり、づしり、づたり、づたり
 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

いま日中を通行する
黝鐵の凄く油ぎつた
巨重の逞ましい機械をみよ
この兇逞な機械の踏み行くところ
どこでも風景は褪色し
空氣は黄ばみ
意志は重たく壓倒される。
 づしり、づしり、づたり、づたり
 づしり、どたり、ばたり、ばたり。
 お一、二、お一、二。
(萩原朔太郎『青猫』より)

「づしり、づたり、どたり、ばたり」という適切なオノマトペ。お一、二、お一、二と歩調を合わせていく感じ。萩原朔太郎は、おそらく、すごくいい距離感で「軍隊」を見ていたのではないだろうか。

「群集の中を求めて歩く」という詩でも、詩人は「都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる」が、やはり詩人は詩人としてそのなかにいる。一つの「波」になることもなく、川にささった棒杭のように立っている。

時代の波を受けた棒杭が語る言葉は、どこか「異質」なものを孕む。ぼくは、この「棒杭」のように立っていよう。今日、「メディア」の「言葉」を使って話していることに気づいたぼくは、きっと「棒杭」になれる。そのことに自覚的になることと、気づかずにいることはきっとちがうはずだ。

実は出勤日数も通常勤務よりも減りそうだ。少し時間もとれそうなので、そういう意識で「詩」に取り掛かってみようと思う。まずは長編詩にも取り組みつつ、6月の投稿のことも考えて、書いていってみよう。

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