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「季刊びーぐる」第54号 選外佳作 | 20220127 | #フラグメント やがて日記、そして詩。23

詩誌「季刊びーぐる」第54号が届いた。新宿紀伊國屋やジュンク堂などに行かないと手に入らない詩誌なので年間4000円の定期購読をしている。一冊1000円なので送料分お得に買うことができる。

どんなに忙しくても、どんなに詩が書けなくても、「びーぐる」にだけは投稿しようと決めているので、年に4回、発売日の20日ごろになると主催の山田兼士さんのTwitterを注視しはじめる自分がいる。でも、だいたい、今回は載っているだろうな、とか、今回は名前だけだろうな、とかいうのはつかめるようになってきた。

自分でも、詩作品が掲載されるレベルか、名前程度か、というくらいには良し悪しはわかるようになったということだ。じゃあ、載らないレベルのものを投稿するなと言われるかもしれないが、自分のなかで「びーぐる」に投稿しないということが、なんだか詩を書くのを諦めるということとイコールのような気がしてる。だから、どんなものであっても、今季に書けたものはこれです、と正直に出すことにしている。

とはいえ、今回は正直、自分でもどうしようもないものを送ってしまったと思った。それでも、そのときにはそれしか書けなかったから仕方ないのだが、今回は名前すら載らなくてもぐうの音もでないようなものだった。しかし、今日届いた冊子を後ろから開いてみると、名前が載っていた。

そこにはこう書いてあった。

坂多さん評
吉田さん評

応援してくださっているんだな、と思った。選者の坂多さんからはこれまであまり選ばれることは多くなかった。どちらかといえば吉田さんに選んでいただくことが多く、ああ、吉田さんは何かを見出してくださっているんだなあと感謝の思いでいっぱいだったが、今回、坂多さんの評に「佐々木さんのいつもの詩は」と書いてある。僕の「いつもの詩」が、坂多さんのなかにもあったのだ。その事実だけで、真意のほどはわからないけれども、激励してくださっているのだと思った。

少なくともこの一、二年は継続して投稿しているので、自分の紆余曲折を、詩作品という声なき声をとおして見ていただけているというのは、何よりも自信になる。投稿、という制度に対して、なんだかんだと議論はあるけれども、少なくとも、選者という読者がいて、応答が返ってくるというのは、不思議と嬉しい。

本来的に、詩は、コミュニケーションツールではないと思う。伝達言語ではないので、明確なメッセージがあるわけでも、応答待ちの文章でもない。しかし、そういうある種の迷いのなかにある、声を発しているのか発していないのかわからないような言葉を聴きとって、応答がある、というのは、それこそ投壜通信というのか、拾ってくれたのか!という驚きがある。

そうして、届いた!という歓びが、また次の投壜通信へといざなうのかもしれない。声なき声が聴こえる、ということ。これはまったくの偶然かもしれないし、どういう理屈かもわからない。それでも、届く、という事実がある限りは、そこには希望がある。

というのも、これは選んでもらえたからこう思える、ということにすぎない。実際は「現代詩手帖」やら「ユリイカ」やらに数回投稿して、届かなかったので、結局、もがくことさえやめてしまった。届かなかったときの落胆というのはなかなかのものだ。しかし、よく考えれば、少なくとも「届け先がある」ということは、たいへんしあわせなことではないだろうか。

選ばれるためにやってるんじゃないとか、その選者にとってよかっただけだとか、いろんなモチベーションの持ち方はあるだろうが、じゃあ、誰に、何にむかっているのだろうか。自分のためだけにあればいいなら、自分という届け先に送りつづければいい。そういえばなんだかわからない、ならば、届け先の一つとしてあってもいいだろう。

認められようが、認められまいが、それで立ち振る舞いを考える一助にはなる。それで辞めてしまってもいいし、続けてもよい。僕は、まだ続けてみようと思う。

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