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#10 コンノダイチの部屋

注文していた詩誌「季刊びーぐる」第47号が届いた。

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今号ではぼくが属している詩のサロン「26時」同人のコンノダイチの投稿作品が掲載されている。「96193」という作品で、あれはいつだったか。詳しい時期は覚えてはいないが、彼が急に「書きたい詩がいくつもある」と言いだして、一気に書いたものだった。

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ぼくたちは定期的にぼくの部屋で会議をしていたから、その会議のときに4作品ほどコピー用紙に印刷したものを持ってきた。たぶん、彼の詩の作風の転換点はそのときだったと思う。

「26時」は2011年に活動をはじめた。当時は3人の同人だったが、いまは2人でがんばっている。そのとき、彼は詩をはじめて書いた(のだと思っている)。BUMO OF CHICKENやスピッツなどの歌詞や、豊富なマンガやアニメ、ゲームなどのストーリーがインストールされている彼の最初の作風は、独特のリズムがあって、それはたまにいまでも流れるのだが、七五調的な音数律があった。

【↑「26時」のことはこの記事に詳しく書いてある。】

当時のぼくたちは「季刊26時」というささやかな詩誌を詩の練習帖と位置付けて、はじめて書いたような詩を発表することで力をつけていこうとしていたわけで、いまでは自分の作品は見るにたえないもので恥ずかしくなるのだが、彼の作品も詩というより「歌詞」に近かったかもしれない。(しかし、最初に出てきた詩は、いま読んでもすばらしい)

その彼が、変わった。何が変わったのかはよくわからない。これが、ということを言うのは、なかなか難しい。本人は、Twitterで「#ばけもののうた」というタグを運営して、他人が書く詩を読みまくり、感想を書きまくり、という生活をつづけたことで「詩が、見えた」と言っている。

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正直な話、詩を勉強しよう、としたとき、ぼくたちはすでに詩集などになっている詩人の作品を読む。いわば、評価されたものを読もうとするだろう。ぼくは少なくともそうだ。その方が効率がいいと思うのが普通だ。

しかし、彼は違った。

彼は、「#ばけもののうた」というタグを運営することで、いわば「ばけもの」という架空の存在の「うた」をTwitterを中心に活動している人たちに書かせた。これにはさまざまな狙いがあって、説明すると長くなるので控えるが、一つだけ言っておけば、「詩」は、「文学」は、「虚構」であるということ、それを再認識するためのものだった。

よく「ポエム(笑)」と中傷されることがよくあるが、これは書き手の「私」と、文面の「私」が100%一致しているから起こる問題だとぼくはいまは思っている。

書き手の「私」の気持ちを書いただけのもの。

よく国語の授業で「作者の気持ちを答えなさい」とかおかしいだろ、そんなのわかるわけない!と多くの人が言うが、それこそ「ポエム(笑)」と呼ばれるものは、「作者の気持ち」がわかるように書かれているし、それ以外に読むことができない。恋人と別れて悲しいとか、あなたに会えなくて泣いてますとか、それ以外にないことを書いているから「ポエム(笑)」なのだ。

少なくとも、「文学」というのは「読者」によって、多様な解釈が生まれるものであるから、解釈が「それ以外にない」作品は「文学」足り得ないということである。

つまり、「ばけもの」という虚構の存在の「うた」を書かせるということは、まずファーストステップの「虚構」を読むということを目的にしたものであったと言える。

Twitter詩をあされば、それこそ無限に出てくるが「ポエム(笑)」に溢れ、「100%私」のものが多い。そこで、「ばけもののうた」を書いてもらうことによって少なくとも「虚構」の作品を読むことができる。そして、評価の定まっていない「未来の詩人たち」の作品を読むことができるのである。

そして、彼は読み、それらの作品群に対して、感想(しかも批判しない)を無限に書き続けた。おそらく、そこで、どこに「詩」になりうる核があるのかを探りつつ、自分だったらどう書くかなどを延々と考えつづけたものとぼくは想像している。言ってみれば、模擬戦やイメージトレーニングを何百回何千回と繰り返していたのだろう(たしか「ケンガンアシュラ」の主人公は頭のなかでシュミレーションを無限にできる人間だったが、そういう感じ)。

昨日の記事でぼくは前代の詩を否定することで、新たな詩が生まれてきたという大岡信の文章を引きながら述べたが、大岡はさらに木原孝一の文章を引用していた。

「私たちが『詩』と云ふ概念を持つのは、実は『詩』と『詩でないもの』との境界に立ったときであります。逆説めいた云い方ですが『詩』と云うものは『詩でないもの』と対比させて見なければ、はっきり正体のつかめないものなのです。(木原孝一「現代詩の主題」)

つまり、「詩でないもの」のなかで「詩」を見つけようとする、ということを彼はしたのだ。かつての戦後の詩人たちが向かったところに、彼はたったひとりで向かった。まだTwitter詩人たちの書いたものに評価はない。まだ「詩」と認められていないものたちを無限に読むなかで、彼は「詩」を見つけようとしたのだった。

そうして、来る日も来る日もそれらを読むなかで、ついに「詩」を見つけたのだった。それが、何日目、何か月目、どのくらいの時期だったのかは正確に思い出すことはできないが、彼のなかで何かを見つけた。

そのとき書かれたのが、今回の「96193」という作品だ。

他にも何篇かの詩があったが、ぼくは、この作品を投稿するようにすすめた。彼は「投稿?」という感じだったのだが、その後さまざま話していくなかで、数か月まえに「季刊びーぐる」に投稿してみるということになった。

思い出話をすると、ぼくも「季刊びーぐる」には何度か投稿したことがあった。ぼく自身の詩の転換点というのは、「季刊びーぐる」にあったかもしれない。もうずいぶんまえのことになるが第28号(2015年7月)に細見和之さんという詩人が選んでくださり、29号でも選んでくださった。この経験はぼくをかなり勇気づけた。

【↑「帰途」が28号、「あのときはどうして」が29号に掲載された】

それ以後は、ぼくはなかなか投稿できなくなってしまっていたが、直近だと45号(2019年10月)に「選外佳作」として載ったが、選者お二人とも「長くないか?」ということに言及しており、ぼくもそう思っていた。実は今号でも投稿していたのだが、予想通り選ばれることはなかった。

ともかく、「季刊びーぐる」は、彼にとっても転換点となる作品を掲載してくれたということである。これはぼくだけの感想かもしれないけれども、それがとてもうれしい。あのとき、「投稿してみれば?」と言ってよかったと心から思う。

現在も彼は「#全読」というタグで感想を書きまくり、さらには「サヨナラジオ」というツイキャスで「#全読」タグのなかで、さらに「#ヨミマス」がついているものを取り上げ、巧みなトークと読解で解釈をつづけている。

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いわゆる「現代詩人」のとる行動とは、まったく違ったかたちで「詩」を探しまわっている。それが、どこに辿りつくのか、同人としてもずっと気になっているところだし、ときおり、言葉が過ぎてTwitter上の人々と喧嘩をしていることもあるが(笑)、信念を貫いていく姿勢は尊敬している。

ぼくも負けてはいられないと思う。とはいえ、ぼくは彼のようにはできないので、別のアプローチで進んでいく。全然違うタイプの二人がいるのが「26時」という詩のサロンだ。もっと「詩」でないところに、「詩」を打ち立てていこう。

今日は久しぶりに「26時」の話をしたので、直近のぼくたちの作品をご紹介します。

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26時 vol.07:00 連詩集 壁ノ画
佐々木蒼馬とコンノダイチによる連詩集です。
それぞれが全力でお互いの作品を読み、書き、さらに一篇一篇が独立した詩作品であることを目標に二人で交互に書きつないできた作品集です。
7月から10月半ばまで週に一回程度送り合いながら14篇の詩が集まりました。
全篇で90ページの大作となり、B5版の大判サイズなので内実ともに重量感と読み応えがあります。

↑ここから購入することができます。残り5点ほどしかありませんのでお早めにどうぞ。

ちなみに、「季刊びーぐる」第47号は現在Amazonでは入荷未定になっているが、ぼくは七月堂さんで購入した。オンラインショップもあるので紹介しておく。

マガジン『部屋のなかの部屋』
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