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#11 「詩」を「撮る」部屋

昨日も散歩に出た。

Googleマップで見たところ、目的地まで2キロほどだった。目的地についてからは、迷いこむように歩いていたので、帰り道分の距離としては5キロくらい歩いたのだと思う。

時間にすると3時間ほど。帰り道では日が傾きはじめた。

Twitterでもnoteでも、見ていると多くの人が散歩をするようになった。きっと、この期間に自分の家のまわりのことが詳しくなっていくだろう。そして、それは住んでいる街への愛情へも変わっていく。

ああ、こんなところがあったのか、という発見がどこまでも歩かせる。何か、満ち足りるということを与えてくれる。

以前、ぼくは散歩の映像をまとめた動画をつくったが、今回もたくさんの映像を採集してきたのでここにあげてみる。

動画編集に関しては完全なる素人だから、動画編集ソフトの練習として作ってみているのだが、どの映像をどの組み合わせで使うかと考えることは大変だけれども楽しい。本当に無限の組合せがあり、動画編集を仕事にしている人たちの労力と技術とセンスはすごいと思う。

「映画」も、がんばれば一人でできてしまいそうだ。すごくがんばればだが。とはいえ、ぼくがただつなぎ合わせて作った「映像」は、「映画」ではないのだろうか。

これも、「詩」と「ただの文章」との違い、つまるところ「藝術性」の問題になってくるのだろうが、一般的にぼくたちが目にする「映画」は、ハリウッド映画だとか、邦画とか、アニメ映画だと思うが、そこには巨額の予算が組まれて、多くの俳優や撮影スタッフ、スポンサーなどが複雑に関係している。

ただ、一方で、ただ一人でカメラをかまえて、ストーリーも何もないような「映画」を撮る監督もいる。ちょうど、吉増剛造さん伝いに知ったジョナス・メカスという映画監督もそうだ。

ぶれっぶれの映像を延々とつなぎ合わせて、音楽やモノローグのようなものをのせただけと言えばそうなる。これが、「映画」なのか?と問われると、ぼくたちが知っている「映画」とは違うというだけだ。

しかし、見ているとこれも説明不可能なのだが、「詩情(ポエジー)」のようなものは感じる。ジョナス・メカスという人は、映画監督でありつつも、詩人でもあった。そういう点で、「映像」によって「詩」をつくっているのかもしれないのだが。

このあたりの議論はぼくの手におえるところではない。やってみても、結局は「商業映画」と「前衛映画」(だとか「映画藝術」)という二項対立論しかでてこない。ただ、ここで話しておきたいことは、なぜぼくが写真を撮るばかりか、「映像」を撮り、なおかつ慣れない「動画編集」をしてまで、一つの「映像」をつくりたがるのかということだ。

ぼくは詩を書くことを中心にやっているが、カメラを持ち歩いて「写真」を撮ることも、同じ気持ちでやっている。「言葉」を集めるのと同じ感覚で、というよりほぼ同じ行為として「写真」を撮っている。そして、この「動き」そのものを、と思ったときに「動画撮影モード」に切り替えていたりする。

そして、集めたカットをPCでならべ変えたり、長さを調整したりして、決めた尺のなかに収めていこうとする。その際には、言葉を添えはしないが、ストーリーのようなものは思い浮かべている。

あらためて考えてみるでもなく、詩を書くことと同じことをしている。ただ、詩は、「言葉」を出さなければならないということと、写真や映像は、もとあるものを「撮る」という違いはあるのだが、特段「映像」を作りたい!という欲望はない。

あくまでも「詩」をやっている、と自分では思っているのが不思議なところだ。よく「詩的」だという言葉が使われる。これは、「詩」でないものに対して、「詩っぽさ」を見出したときに使われる言葉だ。だから、厳密に言えばぼくにとっての写真や映像も「詩的」なのかもしれないが、自分の感覚としてはそうでもない。「詩」を撮っているというのか。

いつも、こうなったときの「詩」が抱えているものの大きさを感じる。なんでも包括してしまうからこそ、都合よく使われてしまう。ぼくも都合よく使っているのかもしれないのだが。それでも、この懐の深さというのは、おそらく他のジャンルとはまったく別種のものがあると思う。

小説は小説だし、短歌・俳句などの境界も微妙なものもあるにはあるが、マンガはマンガ、アニメはアニメである。もちろん、絵画とイラスト、さらにはデザインとの境界にも難しいものはあるのだが、小説を書きながら、私は詩を書いているという人はいると思うけれども、詩を書きながら私はアニメを書いているという人はいないのではないか。

そういう不思議さを持っているのが「詩」なんだなあと常々思う。それゆえ、今回ただ映像をまとめただけなのだが、ぼくにとって「詩」の行為となんらかわらない。だから、「映像詩」と一旦呼んでみることにする。

一年以上まえだっただろうか、noteの記事で「詩2.0」という在り方を考えたことがある。言ってみれば、こういうオンラインでなんでもやるような時代になったときに、いつまで「紙」という媒体を前提とした「詩」を考えていく必要があるのか。裏を返せば、あらたなデジタル媒体で「詩」を考えたとき、どのような可能性があるのか?ということだ。

「メディウム」の問題はとても難しい。いまだにキャンバスに描く画家がいれば、どんどんとデジタルで描いていく画家もいないでもない。そこにどんな境界があるのだろうか。それは、画家とイラストレーターと呼び方が変わって、別の人になったのだろうか。

そう考えたときに、いまぼくたちが直面している「詩」と「ポエム」問題というのも、どのメディウムを採用したかによる違いだけなのかもしれない。そもそもが、ただ違う道を歩いているだけなのかもしれない。ところが、どちらも同じ「詩」を扱うからこそ、それは「詩」でそれは「ポエム(笑)」だ!といった議論が巻き起こるのかもしれない。(でもそれだけじゃ絶対ないけど)

話を元にもどすと、以前考えていたのは、デジタルで読めるからこそ、「文字」を動かしたりするアクションがあってもいいのでは?ということだった。最近では、動画で言葉を見せる人も多くでてきたが、当時も、それしか方法がないと思っていた。そしてそれは「詩」ではなく「動画」だと思ってやろうとは思わなかった。

しかし、今日述べてきたような感覚で言えば、自分は「詩」をやっているという意識さえあれば、メディウムは問わないのではないかと思い出している。止まるより、やりたいことをやって動きつづけていた方がいい。「詩か、詩以外か。」は「俺か、俺以外か。」でしかない。

最後にぼくが好きなジム・ジャームッシュ監督の「PERMANENT VACATION」をあげておく。これもただ若い青年が街を歩いているだけの映画だが、とてつもないポエジーで満ち溢れている。

あとは、このまえ作った動画。

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