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Ich gehe mit meiner Laterne

文章を書く余裕がないというのはわたしにとってとても最悪なことで、精神的にほんとうによくない。

とはいえ毎日学校に行って勉強して、宿題もして、ちょこちょこ仕事もして、仕事に必要な計画書のためにパワポをいじって、今後のことも考えて、Veganラザニアを焼いて、という日々ではなかなかEvernoteの下書きや箇条書きを整理する気力がわかないのも事実である。

ただ、とても眠いのに眠れなくてもやもやと脳みそを巡らせているときはだいたい死にたくなってしまうし、そのまま死に場所を検索して二時間経って絶望して寝て起きたら泣き腫らした目のひどいアジア人が鏡の中にいることが多々あって、これはいかんなあと思う。

死ねるのであればまったく喜んで死ぬのだけれど、もう20年以上も死にたいなあとぼやきつつ死ねないというのは、まあ、そういうことなのだろうと諦めつつある。
冬のひとり旅で死ねない人間はどうあがいても自殺なんてできないのだ。

そうだとしても、生きることはいつまで経っても楽にはならない。
食べるのは苦しいし、でも食べるし、膝は痛いし、風邪はひくし、お金を稼ぐことに興味を持てないし、そのくせいっちょまえに遣うし、もうずっと眠いし。

死にたいと言い続けているくせに死ねないのは、死が全てを解決すると思っていないから、とかそんな賢い理由からじゃなくて、ただただ怖いから。
死は希望であると同時にもっとも恐ろしい。
よくわからないことは怖いのだ。
しかも、死んだからってわたしのこの死にたい気持ちがなくなるかはわからない。
修士に進んで死についての研究でもすればよかったか。

ビルの屋上で風を感じているとき、線路に飛び込むタイミングをうかがっているとき、薬を10シート分ぜんぶ出して眺めているとき。
いつもすごくどきどきして、つめたくて、無音で、こわかった。
そのタイミングになってやっとああわたしは生きているのだなあこれからも生きていくのかなあと感じ、それでも柵をよじのぼり、警笛を鳴らされ、アルコールで薬を流し込んだ。

死はいちばん怖くて苦しい。
そんな恐ろしいものがいつ訪れるかもわからないから、生きるのはつらい。
だから死んでしまいたい。
そういうことなのかもしれない。

こんなことばかり考えていても明日の食べ物が手に入るわけでも語学学校の費用が賄えるわけでも家賃が払えるわけでもない。
体脂肪率が17%になるわけでも睫毛が伸びるわけでもないし、ロシア語が話せるようになるわけでもない。
勉強して筋トレしてタンパク質とってよく眠って同居人(ドイツ人のおばあちゃん)とおしゃべりでもした方が心身ともに健康になれるのはわかりきっている(ほんとか?)。

それでもわたしはこうして自分の気持ちを文章にしないとまずそもそも生きていけない、のかもしれない。
死にたいのに生きる方法を模索するのはなんでだろうね。
わたしは死にたくないのかな。

今週で語学学校も終わりだし、そろそろ日が短くなってきて、生活リズムは崩れるだろう。
死にたいなあと思っても、家賃を払っているとはいえ人の家で、そして外国で、というのはなんだか気が引けてしまって思いとどまることばかり。
だからこそギリギリの爆発寸前までずっと我慢して我慢して我慢して、日本にいたときみたいに小出しに死にたがることもしないで、溜めて溜めて溜めて、堪えきれなくなって、そうしたら死ねるんじゃないかなあとも期待している。

親(や自分以外の人)の(稼いだ)お金で生きている限り苦しいままで楽になんてなれないって、誰も教えてくれなかったのだけれど、みんなどこで学んだのだろう。
最近やっと、自分で稼いで自分で生きるのはいいなあ羨ましいなあと思うようになった。
そうはいってもわたしは何もできないし、というかできることはやりたくないことだし、甘えているのかなあとも思うけれど、そもそも生きることや人生や自分自身に希望をもてないのだからどうしようもない。

わたしは、自分の育った環境が普通ではなかったとかあるべき姿ではなかったとか、自分の産まれた背景とか、そういうことを知るたびに
「わたしには死ぬ権利が、せめて死にたがる権利があるのだ」
と、水を得た魚のように安堵し目を輝かせ、期待に胸をふくらませた。

「積極的に生きられなくても仕方がない」
という、なにか免罪符のようなものを手にした気分だった。

だから、入院中に
「あなたがここまで生きてきたのは奇跡なんですよ。とっくに死んでいてもおかしくなかった」
と言われたときは心底うれしかった。
そうだよね、わたしは自殺してもいい人間なんだ、って。

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今日は、朝から気分が最悪だったので、ドイツに来ていちばんくらいにバッチリメイクをして、髪を丁寧に乾かして、どちゃどちゃにお洒落な服装で学校に向かった。
クラスメイトも先生も「センスある!」「素敵!」「毎日そうしなよ!」って言ってくれて最高だった。
久しぶりのハイヒールは、もちろん親指と小指と膝とふくらはぎが痛くなったけれど、背筋は伸びるし気分はルンルンして、たくさん歩きたくなってしまった。

授業が終わってから図書館で宿題をしていたら隣にいたおじさんに話しかけられた。
いろいろと話したけれど、要約すると
「見た目がいいから銀行の秘書できるよ。銀行はいつも男の世話をする美人を探しているから」
というようなことを言われた。

それから
「チョコレートと酒の話をしたあとなら性の話もオッケーだろ?」
とセクハラをされたので逃げた。

逃げる前に、
「ハタチくらいかと思ったからこれから大学いって秘書すすめたけど27じゃもう遅いね、日本に帰るのがいいよ」
と言われ、これだからおじさんは嫌いだよと思った。

トーマス・マンとヘルマン・ヘッセとミヒャエル・エンデとヴィクトール・フランクルとエーリヒ・フロムの話もした。
ドイツの文学や歴史にはあらゆるところにタブー(ナチス)が潜んでいるので気をつけなければならない。
背景知識なしに知ったかぶるのはやめようと思った。

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まあ、死にたくなったら文章を書いておしゃれしてチョコレートを食べて本を読んでちょっと勉強してたくさん寝てあったかいチョコレートドリンクを飲むくらいしかできることはないよね。
収支のバランスが最悪なのでそれもあんまりできなくて悲しい。

定職についている人に、定職についているってだけの理由で大きな顔をされたくないから、定職について壊れるまで働くという経験はしてみたい。そんなネガティヴな感情で動きたくない。
コンプレックスをバネにとか気持ち悪い。

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だいたい毎日死にたくて、泣いて、寝不足で、バカみたいなのだけれど、これは喫煙でどうにかコントロールできるのではないかとここ2週間ほど考えている。
タバコを吸ったことなんて今まで一度もないのに、ずっと吸いたくてたまらない。
煙がだいきらいだと公言しつづけてきたのにもかかわらず。

どうしてこんなにもタバコを吸いたいのか、最近のわたしを思い返したら魔の山のせいだと思った。
マンの魔の山では主人公が実に美味そうにふかす。
タバコがいかにいいものか仔細に描写されていて、どうしてわたしはそんなにいいものなしで生きているのだろう、もしかすると喫煙の習慣がないから自分をコントロールできなくてすぐに死にたくなるのか、などと考えついたに違いない。

女がタバコを吸い始めるのはすべて男の影響だと思っていたけれど、それは大きな間違いだった。
いやトーマス・マンも男だけど。

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そろそろ眠れそうだし、グダグダといかにわたしが死にたいか/死にたがる正当性があるかを書きつけたら苦しさが幾分かまぎれた(気がする)ので、寝る。


どうすればわたしは楽になれますか?

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