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vol22 資本主義社会での生き方

現代では、自分の人生を自分で生きる感覚を持つのが難しいと感じることが多い。楽しく幸せに過ごすうえで、これは大きな障害になっていると感じる人も多いだろう。その要因の一つとして、社会の裏側に存在する、人間には扱いきれない壮大な資本主義というシステムがある。しかし、このシステムについてあれこれ言っても仕方がない。重要なのは、この時代に生まれた僕たちがどのように生きるべきかを考えることである。

生き方を考えるうえで、前提として問いたいのは「僕たちはどう生きているのか」ということだ。ここを解明できれば、より具体的に生き方を考えやすくなるだろう。結論として、僕たちは想像の中で生きている。

想像とは、知覚(目で見て、耳で聞き、肌で感じていること)している現実だけでなく、知覚していない部分にまで思いを馳せることである。たとえば、机の上にコップがあるとする。自分から見える側面は無地だとすると、逆側も無地ではないかと想像することができる。

実際にその裏側がどうなっているかは問題ではない。見えている、つまり知覚している情報から思い描いているものが想像であり、それは現実とは隔離された次元に存在する。実際にはその裏側に絵柄が書かれているかもしれないが、見えているのは無地の側面だけだから、それは分からない。

しかし、人によっては無地だと思う場合もあれば、絵柄があると思う場合もあるだろう。それは個人の体験に依存する。たとえば、Aさんが過去に無地のコップを使っており、それが机の上のコップに似ている場合、おそらく無地だと想像するだろう。逆に、Bさんが片面無地で片面に絵柄があるコップを使っていた場合、机の上のコップの反対側には絵柄があると想像するかもしれない。

つまり、僕たちは過去の体験からしか想像することができない。逆に言えば、僕たちの想像は過去の体験の範囲内にしか存在しない。そう考えると、想像するうえで重要になるのは「僕たちは過去の体験をどう蓄積しているのか?」、「想像するために活用する過去の体験はどのように選択されているのか?」という問いである。

たとえば、過去に使っていたコップが無地のものだったこともあれば、絵柄があったこともある人がいるだろう。しかし、机の上のコップを無地か絵柄付きかのどちらかと想像することになる。当然、両方の可能性を考えながらも、頭の中の想像のスクリーンにはどちらか一方の映像しか流れない。あくまでスクリーンは一つであり、無地か絵柄のどちらかが選択されている。

では、これは何によって、どのように選択されているのか?抽象的な表現だが、大きく二つの要素があるように思う。

① 過去の体験との関連性
② 過去の体験の印象度合

過去の体験との関連性について。たとえば、Aさんが無地のコップと絵柄のコップの両方を使った経験があるとする。しかし、実際には無地のコップは大きなサイズで、絵柄のコップは小さなサイズのものだったとする。もし机の上のコップが大きくて無地のコップに似ている場合、Aさんは裏側も無地だと想像するだろう。逆に、サイズが小さく、絵柄のコップに似ている場合、見えない裏側には絵柄があると想像するかもしれない。このように、過去の体験と今目の前の経験の関連性から判断し、見えない範囲を想像している。

また、この関連性は対象の事物だけでなく、空間的や時間的にも関係している。たとえば、どの場所にあるのか、どの部屋にあるのか、または何時ごろに存在するのかによっても、関連付けられる過去の体験は異なってくる。

次に、過去の体験の印象度合について。印象度合という言葉自体はすごく抽象的で、解釈の余地があるが、ここでは分かりやすく「お気に入り度」とでも言おう。たとえば、Bさんが無地のコップと絵柄のコップの両方を使った経験があるとする。しかし、無地のコップはあまり使わず、長い間絵柄のコップを使っていた場合、Bさんは机の上のコップの裏側に絵柄を想像するかもしれない。なぜなら、絵柄のコップを気に入っており、Bさんにとって「コップ」と言えば絵柄がある方がしっくりくるからである。これが印象度合である。お気に入りだけでなく、心に残るシーンがあれば、それが印象に強く結びつく。

ここまで「想像する」ことについて考えてきた。結局、重要になるのは僕たちの過去の体験の解像度である。なぜ自分がこのように想像したのか、それを考え、過去の体験を特定する。そして、その体験が今の自分を形作っていると自覚することで、自分の人生を自分で生きている感覚をより強く持てるようになる、そんな風に思う。

この「想像する」という行為は、人間の大きな特性の一つだ。空想上の事実を信じることができるのも、体験を記憶し、それを保存できるからではないだろうか。とはいえ、すべての人間が想像できるわけではない。たとえば赤ちゃんは想像力が乏しいだろう。過去の体験がそもそも足りないからだ。だから、赤ちゃんは今この瞬間を生きていて、想像の中を生きていない。

では、赤ちゃんは人間ではないのかと言えば、そうではない。赤ちゃんも人間である。ただ、大人の方がより「人間的」であるとも言える。とはいえ、年齢が高くなるほど人間的で、小学生は人間的ではないと言えるのか?そうでもない。ある一定のラインを超えたら良いのか?それとも別の指標があるのか?想像という存在が僕たちにどんな影響を与え、どんな意味を持つのだろうか。

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