「性格診断はあてにならない説」を読んでの感想

自分から見た自分である『自己像(自己で行う診断の結果を含む)』で上手くいかないとき、
他人から見た自分に向き合う必要が出てくるのかも知れない。
もしくは計測できる数値や実績で客観視する必要が出てくるのかも知れない。

と8月3日に書いたのですが、それに関して前回に引き続き、もう少し書いてみます。

これに関連して、
ゴルシ さんの『性格診断はあてにならない説』


を読んでの感想を書きます。


自己診断も他者診断も難しい

家では明るく元気な子が学校ではシャイだったり、恋愛では否定されると攻撃になる男性が職場の仕事で批判されるのには寛容だったり、医者の前では不安で挫けそうになる人が登山家だったり大胆にリスクを取る起業家だったりする。

つまり状況が変わると同じ人間が全く違って見えるケースが多く、それは自己定義や自己診断においても同じことが言えるということになります。

性格診断には様々な設問が用意されていますが、その設問は人それぞれの解釈に委ねられている部分が多く、設問から想像したシチュエーション次第で診断の結果は大きく変わる可能性があります。

このような些細な文脈の違いで結果や判定が大きく変わるものを、ある研究者は文脈原則と定義しています。

これは、エニアグラムにおいては、もっと深刻で、
「完璧を求める」だとか、「人にやさしい」だとか、「成功を求める」だとか、
だとか、だとか、
誰にでも当てはまる表現が出て来ます。

これに「文脈」なり「状況」を掛け合わせると、どの項目でも当てはまる場面が、さらに増えます(「俺、こういうときは完璧を求めるもんな。よしタイプ1だ!」と、なり得てしまう)。

また、大まかに書かれている場合は、自分なりの解釈も可能です(「やさしさ とは実は、きびしさ なんだよ」みたいな自分解釈)。

性格は変化するもの

内気な子供が内気な大人になる可能性が高いのは事実だが、必ずそうなるとは言えない。ある部分が変わらなかったとしても、年齢を重ねるにつれて多くの人が変わる部分もあれば、個人として変わる部分もある。

これはエニアグラムのワークショップに行っていても、感じます。
ただし、エニアグラムの場合は、変わるといっても、その性格タイプの範囲内に収まります。

それと、付け加えて言うなら、
ワークショップに行く中で、「(正しい)性格タイプが分かったね」ということはあっても、「性格タイプが変化したね」という人には会ったことがありません。また、そういう話も聞いたことはありません。良い意味で「変わった」という話が出ることはあります(まあ、悪くなれば、たいてい来なくなるであろうから、当たり前かも知れませんが・・)。

15-18歳の頃の性格と65歳前後の性格では、相関係数は僅か0.3程度しかなかったという統計データもある。

この部分は分かりませんね。
ですから、性格タイプが変化するかどうかは、私には分かりません。
全員0.3なんでしょうか? 大きく変化する人で0.3なのでしょうか?(たぶん後者ですよね)
「5年もたてば、人は顔だちも変わる」と歌ったのは中島みゆきですが、性格もそれにともない変わるのか?
本当にこの部分は分かりません。

15-18歳の頃の性格と65歳前後の性格・・・、
エニアグラムをやっていて、65歳の子供を持つ親御さんに尋ねたいところですが、少し無理なような。

(2021/09/21追記
blue1984さんに言われて確認してみました。
相関係数0.3は、「弱い正の相関」となるようです。
まったく相関が無いわけではありません。

となると、18歳のときの性格(診断結果?自己申告?)と、65歳前後のそれで、相関係数が0.3だった人は、
バラツキはあるが、それでも「弱い正の相関」はあるということで、
加齢による変化である可能性も出て来ました。

18歳「困っている人を助けたい」「すぐ行動する」「批判しない」
⇒ 65歳前後「困っている人を助けたい」「行動しない(疲れるから)」「批判する(口で活動するようになった)」 みたいな感じかも知れません。

ただ、これは、内容を精査しないとなんとも言えないので、この部分が本当に加齢による変化かは「判断できず」にしたいと思います。
追記 おわり)

あと、高齢の人を見ていると、歳をとると、本来の性格タイプから来る欲求を自分が満たせなくなってくるので、
少し出方が変わったり、ストレスを受けているような態度になったりする人がいます。

ですが、これ、何も年齢に関係するわけでもなくて、歳が若くとも、本来の性格タイプから来る欲求を自分が満たせない人はいて、
まあ、いろいろ、ストレスからタイプの中においての表現形ひょうげんけいも変わってきます(ちなみに国も同様です)。

他にも、自分を出し過ぎると、他人と衝突したり、ときにその人が所属するグループの性格や地域性とぶつかるので、
生きていくうちに、自分を反省したり修正して変化する可能性はあります。
良い変化の場合だと、人間味が増すことになります。
悪い変化の場合もあります。
ただし、この場合でも性格タイプとして変わることはありません。私の知る限りにおいては。

また最も重大な性格の変化は18歳-20代後半にかけて起こりやすい。

エニアグラムの性格判断が、だいたいこのころの自分を思い出して回答してください。となっています。
実際にどれほど変化するのでしょうか?
これもエニアグラムをやっていて、子供を持つ親のかたからの意見が聞きたいです。

エニアグラムには、同じ性格タイプでも、その現れ方には幅があります。
自分のコミュニケーション・スタイルの確立が終わり確定するのが、この18歳-20代後半なのかも知れません。
そして、リソ&ハドソンの言うところのレベルも、このころに、大体固定されるのでしょう。


ただし、ワークショップに行くと、こういったものが変化する人が一定数います。
初級中級上級と行っていると、同じ人と一緒に上がることがありますが、良い意味で変化をする人を見かけます。

それと、ワークショップで見る上級者はちょっと違うのですよね。日常で見るその性格タイプとは。
私はときたま、人を突っつくことを言うのですが、「怒るかな?」と思っていると、「そういうところ、ありますね」と、その言葉を受け入れたり(これ、とてもすごいことです)。
人とうまくいかない場合でも、被害者として自分を語るのではなく、「○番との間で、こういうことが起きた」なんて、少し反省気味に語ったりして(これも、なかなかできるものではありません)。

ですので、大人になった後でも、性格タイプは変わらないものの、重大な変化はすると思っています。

それにも関わらず自分を見つめれば自分にマッチするものが見つかるという概念をベースにしたツール類はよく売れる。

それはなぜかというと「人は答えが欲しい」からである。

※本書ではストレングスファインダーを名指しで紹介しています。

ストレングスファインダー
これ、私もそう思っています(この部分は、のちほど、もう少し書きます)。

あと性格とは関係ありませんが、自分で受けるIQテストも、今の自分の立ち位置を知るもので、それは、「人は答えが欲しい」からであると思います(自ら受ける人であるなら、そういった面もあると思います)。
となると、資格の取得のたぐいも、同様なのかも知れません。資格の取得によって自分の立ち位置をはっきりさせたいわけです。そういう「立ち位置が分かる答え」が欲しいというわけです。
例えば、英語のトーイックのテストですら、自分の立ち位置を知るため、「人は答えが欲しい」からであると解釈することも可能です。
トーイックなどのテストは「客観視したい」と言ったほうがいいのかも知れませんが、客観視は「人は答えが欲しい」欲求とは別もののようでいて、実は重なった部分もあると思います。

となると、「自分にストレスの無い答えが欲しい」となったときが一番要注意、といったところになると思います。


ある意味、ゼロから自分というものを探って語る必要がない、便利なものであったりするのですよね。性格テストというものは(これは、その他のテストや資格も同様です)。
それでストレスが無ければ、ストレングスファインダーだろうが、エニアグラムだろうが、MBTIだろうが、そりゃあ、「よく売れる」でしょうね。

組織行動論の専門家、ハーミニア・イバーラは上記のような「質問に答えるだけで」という概念を否定しています。

となると、当然ながら、エニアグラムの診断も怪しくなってきます。

イバーラはじめ多くの専門家は個人の性格や成長において「何かを試し、何が起こるか見てみる」ことが良いと提唱する

そうなんですよね。
例えば、ストレングスファインダーで発想が高いと出た人の文章に、ゼロからの発想を感じさせるものが無かったり、少なくともオリジナリティーを感じさせて欲しいのですが、それが感じられなかったり、
・・・というのは、2~3に さん経験しています。

エニアグラムで言えば「私はタイプ1です」というだけではなく『改革する人』と言われるくらい、人に物申してみれば良いと思います。
その上で、リソ&ハドソンにあるタイプ1のレベルの高い状態に類する言葉(例えば「高潔」「分別がある」の類義語など)が人からの評価として出た場合、それが多少、お世辞や好意が混じっていたとしても、その人はタイプ1だと見ていいと思っています。


砂漠の国の言葉に「言葉は雲、行動は雨」というものがあるそうです。
相手の言葉は信用できない。それは、雲のようなもので、本当に恵みの雨をもたらすとは限らない。相手の行動あってこそ、本当の恵みの雨は降る。という意味だったと記憶しています。
エニアグラムも、「私はタイプ1です」と言うだけでは、それは雲です。なんの恵みももたらしません。
できるなら、タイプ1として行動して、その上で、恵みの最上なものを受け取って欲しいものです。


そういった中で、
「自分から見た自分である『自己像(自己で行う診断の結果を含む)』で上手くいかないとき」は、
やはり、
「他人から見た自分に向き合う必要が出てくる」と思っているのですが、
blue1984さん指摘の通り、
「その評価をフィードバックするのも主観的な私というジレンマ」
は、ありますね。

今回は、「性格診断はあてにならない説」の文章を読んでの感想でした。
結局、誤認問題に関しては、私自身が納得できる答えはまだ出ていません。
納得する答えが出るのは、まだ先のようです。
今後も、この難問に向き合って、文章を書くことと思います。

ちなみに、今回の一連の話はあと一回書いて終わりにします。




蛇足です。
引用の最後のほうにはこう書いています。

自由度が低く創造性が入る余地もない仕事においては「計画して実行する」が大切である。

まんま、レール型のタイプ6の生き方を連想させる言葉です。

しかし人生においての様々な事柄をこれに当てはめるのは決して良い結果を生まない

例えばタイプ3なアメリカ人なら、そう思うでしょうね。
タイプ6的生き方は、統合の方向であり、否定的に見ると思います。

自分は何をしたいのかを明確にできない状態で、質問に答えるだけで良い転職先がわかる、良いパートナーが見つかる、良いキャリアプランが描けるというツールに頼っても、現実は不確実性が高すぎてあまり意味がない。

これに対しての感想は、
「う~~~ん。どうなのだろう」
となります。

あるとき、タイプ6の人で、わけあって、その当時、派遣の身分の人が、仕事の不満を言っていたので、
何がしたいのか尋ねたことがあったのですけど・・・、
そのときの私としては、どういった職種の仕事にきたいかとか、本人の夢を尋ねたつもりだったのですが、
返ってきた答えは「正社員」の一言でした(力強く言い切っていました)。
あー、なるほど、タイプ6だもんね。何より安心・安全・安定の「正社員」が真っ先に来るよね。と思いました。

引用の元になっている本の文章は、成功と夢を求めるタイプ3アメリカのものでしょう。
だから、アメリカ人に対しては、これでもいいのでしょうが、
日本人の多くは、安心・安全・安定を求め、それにしがみつきます。
安心・安全・安定が何よりだという価値観があります。

なので、言いたいことは分かるものの、これに対しての感想は、「う~~~ん。どうなのだろう」となります。

「自分は何をしたいのかを明確にできない状態で、質問に答えるだけで良い転職先がわかる、良いパートナーが見つかる、良いキャリアプランが描けるというツールに頼っても、現実は不確実性が高すぎてあまり意味がない」
と言われても、
たとえそうだったとしても現実の不確実性が高すぎて、その不確実性がストレスだから、自分が何をしたいかというのは後回しで、質問に答えるだけで良い転職先がわかる、良いパートナーが見つかる、良いキャリアプランが描けるというツールに頼ってしまうわけです。

タイプ6は、関係性の人です。周りとのやり取りの中で、自分を見い出す人なのです。だから、内発的に自分は何をしたいか、なんてこと言われても難しい面があります。そういった意味において、タイプ6な日本人には酷なアドバイスとなっています。

そう感じました。

自分が何をしたいのか明確で転職を実際にした人は、そうでない人に比べて日常を過ごす中での幸福度が高いという研究がある。ちなみに仮に収入が少し下がったとしてもである。

これは本当でしょう。ですが、そのように幸福な転職が成功するかは分からないわけで、難しいものがあると思います。

※ 参考
「適職を求めること」について
「椅子はあるか?」とか、「ブルシット・ジョブ」とか、「憧れ産業」とか、いろいろ引き合いに出しつつ書いています。
それと、本件とは関係無いけど、「ブルシット・ジョブ」関連での感想も紹介しておきます。
「ブルシット・ジョブ」関連での感想をいくつか(エニア話ではなく)


蛇足の文の中で、さらに蛇足を書きますが、
そういえば、どこかの外国で(記憶だとカナダ、もしくはアメリカ)、「自分の好きな仕事をしていたら、中国人の嫁の家族の介入で、高収入な仕事に変えさせられた」のような話がありませんでしたっけ。

日本では、婿殿むこどのが大企業をめようとしたとき、当人の家族や嫁の家族が止めようとするという話があります。

日本人が、やりたいこと より、安心・安全・安定を大事にするように、中国人には、また別の価値観があるわけです。
そのようなことを先ほどの話から思いました。


もし自分は何をしたいのか分からないという人は、ちょっとした新しい経験や挑戦、工夫をしてみることでそのヒントが見つかる可能性がある。

これには、賛成です。あと、この「ちょっとした新しい経験や挑戦」にエニアグラムのワークショップを含めていただきたいと思っています。生で自分と同じ性格タイプだという人と会話して欲しいと思っています(今は難しいですけど・・)。

別にエニアグラムにこだわらずとも、ちょっとした“新しい”経験や挑戦、工夫をすることは おすすめしたいと思います。
何もしなければ、何も変わりませんから(変化が嫌いな日本文化で、新しいことは、しなくてもとがめられませんが、やったほうがいいと思っています。ちょっとした精神的 肉体的 金銭的 時間的な余裕があれば)。

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