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20.余白(1) - iii

再び、「19.余白(1) - ii 」で見てきましたティツィアーノの<聖なる愛と俗なる愛>です。

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この画家ティツィアーノについて、少しだけ紹介をさせてください。

1.画家ティツィアーノ



(1)生涯

ティツィアーノ(Tiziano Vecellio、生没年:1488年頃‐1576年)は間違いなく「ヴェネツィア派」最大の巨匠です。画家としての人生は大成功をおさめ、しかも長生きしました。
ヴェネツィア派の始祖ジョヴァンニ・ベッリーニのもとで画家の修業をはじめ、夭折の先輩ジョルジョーネの影響を受けつつ、独自の画風を形成しました。
例えば以下の二例を比較するならば、ティツィアーノのヴィーナスのポーズが、ジョルジョーネ作品からの引用であることは明白です。

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「線のフィレンツェ」「色のヴェネツィア」の言い方がある通り、「ヴェネツィア派」は豊かな色彩を特徴とします。
ティツィアーノ絵画の豊かな色彩感覚は、官能性や視覚の愉悦とも結びつき、同時代のパトロン層に大変人気がありました。
ティツィアーノは神話画、宗教画、肖像画など、さまざまな主題の非常に数多くの作品を残しています。

以下の記事でも、ティツィアーノの作品を扱いました。


(2)ヴェネツィア定住

ティツィアーノの生き方を振り返る時、ヴェネツィアからほとんど出ることがなかったということが、注目に値します。

ヴェネツィアに居ながらにして、ヨーロッパ中の皇帝、教皇、王侯貴顕を相手に商売する形が成立したというのは、当時の一般的な芸術家の働き方としては、かなり斬新でした。

通常は、教皇なり貴族なり、そういったパトロンの居住地に赴き、その宮廷に出入りする「宮廷人」の一人として生活することが求められました。
ミケランジェロでさえ、パトロンの我が儘や理不尽に振り回されてフィレンツェとローマ教皇庁の間を行き来ばかりしていた時代です。
レオナルドですら、仕官を求めてミラノやらフランスやらに移動していった時代です。
そのような時代にティツィアーノは、注文主層から過剰な圧力や束縛を受けないため、数々の誘いを断り続けて、戦略的にヴェネツィアから離れなかったようなのです。

今で言うと「リモートワークをいち早く始めた会社」のようなイメージでしょうか。ティツィアーノのヴェネツィア定住、それは、ルネサンスの芸術家版「働き方改革」とも言えるものでした。


2.「チチアン」受容

さて、夏目漱石の時代には、ティツィアーノ(Tiziano)は、英語読みの「チチアン」として知られていました。(英語表記では「Titian」となります。実際には「ティシェン」のように聞こえます。)

近代日本の「チチアン」受容をご紹介いたします。

(1)夏目漱石

以下は夏目漱石の講演録の文章です。

私共はどの草を見ても皆一様に青く見える。
青のうちでいろいろな種類を意識したいと思っても、いかんせん分化作用がそこまで達しておらんから皆無駄目である。
少くとも色について変化に富んだ複雑の生活は送れない事に帰着する。盲眼めくらの毛の生はえたものであります。情ない次第だと思います。
或る評家の語に吾人が一色を認むるところにおいてチチアンは五十色を認めるとあります。

(太線は引用者による)
(夏目漱石、文芸の哲学的基礎――明治四十年四月東京美術学校において述――、底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房、1988(昭和63)年7月26日第1刷発行。以下の青空文庫より引用)


ティツィアーノが色彩豊かな画風で有名であることを夏目漱石が知っていたこと、また、同じ知識を東京美術学校の聴衆も周知の事実として持っていると漱石が認識していたこと(感受性の細やかさの一例として説明なしで出している)が判ります。


(2)与謝野晶子

与謝野晶子の有名な『みだれ髪』のなかには、「チチアン」を詠んだものがあります。

やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな

(太線は引用者による)
(与謝野晶子『みだれ髪』より。
初出:「みだれ髪」東京新詩社・伊藤文友館、1901(明治34)年8月15日発行。底本:「みだれ髪」新潮文庫、新潮社、2000(平成12)年1月1日発行。以下の青空文庫より引用。)


いくつか論文を当たってみましたが、この短歌になぜ「チチアン」が出てくるのか、どのような意図で出てきているのかは、定かではないようです。
大意としては「破れ壁の貧しい暮らしの中に、才能も名誉もあるティツィアーノの絵を飾っているのはつらいけれども、若い私たちには愛も情熱も文才もある、夜ごと情熱を傾けて文章を綴ろう」のような意味かと想像します。

余談ですが、外国人研究者の方が、与謝野晶子の別の短歌にティツィアーノ絵画を詠んだものがある可能性を指摘していました。以下の論文を紹介いたします(日本語です)。

ジャニーン・バイチマン、「与謝野晶子とチチアン: 『みだれ髪』の裸形の歌とイタリアルネッサンスの画家チチアン(ティツィアーノ)の絵との接点」、新しい日本学の構築 : お茶の水女子大学大学院人間文化研究科国際日本学専攻シンポジウム報告書、2003年、1-79  ~ 1-84 頁。


この論文を通読する限り、与謝野晶子も、官能性、豊かな色彩、感覚の喜びのようなものとティツィアーノ絵画が結び付いている、ということは、よく理解していたように思えます。


(3)野上弥生子

1938年のこと、野上弥生子はボルゲーゼ美術館のティツィアーノのまさにこの作品を評して、このように述べています。

チチアンの描く女の顔は、画家がたいてい特定な顔をもつてゐるやうに、どれも同じ顔をしてゐるが、眼と眉にへんな冷たいものが漂つておそろしく不愛嬌である。この若い女においてはそれが殆ど巌ついほどな表情になり、一方のヴィーナスさへ、ぱちぱち鳴りさうなほどゆたかな裸身にも拘らず、顔つきはむしろ冷たい。」(太線は引用者による)(『欧米の旅』上巻)

弥生子は「チチアン」に手厳しく、辛辣です。
私としては「ぱちぱち鳴りさう」という表現に、なんだか可笑しみを感じてしまいました。弥生子は、右側の裸体像を鑑賞しながら、空想で、ペシペシ叩いてみたということでしょうか。

野上弥生子は夏目漱石に才能を見出されてデビューした女流作家です。
第二次世界大戦が勃発したころ、夫の野上豊一郎(漱石門下生)とともにちょうどヨーロッパ旅行中でした。イタリアの他、イギリス、フランス、ドイツ、スペインを歴訪し、アメリカに立ち寄って帰国しています。
この旅は『欧米の旅』(現在は岩波文庫全3巻)として出版されており、戦争前後の動乱のヨーロッパ・アメリカを記録する貴重な文献史料としても有名です。ちなみに長男の野上素一先生はイタリア文学者(京都大学名誉教授)です。


最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。


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